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2004年12月20日

ひい、ふう、三四の


ひい、ふう、三四の うぐいすが 梅の小枝に巣をかけて 十二の卵をうみそろえ うみそろえてたつときは 一つふわどり 二つふわどり 三つみわどり 四つよわどり 五つ医者さん 六ちゃむこどん 七つなんぎのおもちゃんが コレラの病気をわずらって 石炭酸をふりかけられて うちのおっかさんな血のなみだ 血じゃなかった紅(べん)じゃった 太郎さん 次郎さん タバコ一きんかいなされ タバコかおよりゃ寺まいり 寺はどこかと本願寺 本願寺のうしろはよいところ そのよいところにこができた そのこが六つになったなら 金のきんちゃく さげさせて むこから学校の生徒が五人づれ 一でよいのが糸屋の娘 二でよいのが人形屋の娘 三でよいのが酒屋の娘 四でよいのが塩屋の娘 五でよいのが呉服屋の娘 呉服かたげて ヤサッサ ヤサッサ ハヤハヤ イッコ

hii-fuu sansi-no uguisu-ga ume-no koeda-ni suwo-kakete zyuu-ni-no tamago-wo umisoroe umisoroe-te tatutoki-ha hitotu -fuwadori futatu-fuwadori mittu-miwadori sttu-sowadori itutu-isyasan mutya-mukodon nanatu-nangi-no omotyan-ga korerano-byouki-wo wazuratte sekitansan-wo furikakerare-te uti-no okaasan-na tino-namida tizya-nakkata benzyatta tarousan zirousan tabako-ikkin kainasare tabako-kauyorya teramairi teraha-dokokato-honganzi honganzi-no-usiro-ha yoitokoro sono-yoitokoro-ni koga-dekita sonoko-ga muttuni-nattanara kinn-no-kintyaku sagesasete mukokara-gakko-no seito-ga gonindure iti-de-yoino-ga itoya-no-musume ni-de-yoinoga ningyoya-no-musume san-de-yoino-ga sakaya-no-musume si-de-yoino-ga sioya-no-musume go-de-yoino-ga gofukuya-no-musume gofuku-katagete yassasa yassasa haya haya ikko




手まりを足をかけながらではなく、つくだけの時の歌です。 まりをつくのは、四、五歳では難しい遊びです。 幼い子は、手始めに、なるだけ長い間つける様にがんばる。 それが上手くできたら、足掛け、股掛け、スカート拾い、背中のせ、などの上の技の段階がありました。


長崎・島原半島の西有家のおばあさんから聞いた手まり歌です。 単純につきながらうたうようです。複雑なつき方が難しい四、五歳のころは、ひたすら長くつくよう、熱中したものです。 そして、足掛け、また掛け、スカート拾い、背中乗せなどの難しい技に挑戦していくのです。 最近、まりつき遊びが少なくなったのは、遊びの時に歌うことを無くしてしまったからでしょうか。何かさみしい気がします。 歌の中でコレラの病気に触れているのは驚きです。昔はコロリと言われ、江戸時代の「安政コレラ」では、数万人が死亡したそうです。 明治時代にも西日本一帯で流行し、人々を震え上がらせたといいます。そんな歌でも、とんちゃくなく歌うのが、まさに子どもの文化ですね。 このコレラの文言の入った類歌が、同じ長崎県ですが、遠く離れた離島の新上五島町に残っています。 どのようにして、わらべうたという文化の交流が行われていたのでしょうか。 西有家町は、「手延べそうめん」の産地で知られています。昔、ここから「そうめん船」と呼ばれた商い船が天草や五島、壱岐・対馬まで 風に乗って行き来していたそうです。その帆船は、そうめんや米、みそ、しょうゆ、酒などを積み込み、各地の庶民の生活を支えていたようです。 歌もまた、船に乗り広がったのでしょうね。小さい船が離島に伝えた素朴な手まり歌でした。(西日本新聞 掲載)

2004年12月19日

酒屋ごご


ひっちょこ はっちょこ 酒屋ごご 酒屋がいやなら 嫁にやろ たんす長持 はさみ箱 鼈甲(べっこ)の小櫛(こぐし)も十二本 長崎雪駄(せきだ)も十二足 こうして世話して やるからは 二番に帰ると 思うなよ 父(とと)さん何を 言わしゃんす 千石積んだ船さえも 万石積んだ船さえも 向こうの港が 悪いなら もとの港へ帰ります 私もそれと同じこと 向こうの亭主が 悪いなら もとの我が家へ 帰ります

hittyoko hattyoko sakaya-gogo sakaya-ga iyanara yome-ni-yaro tansu-nagamoti hasamibako bekko-no-kogusi-mo zyuunihon nagasaki-sekida-mo zyuunisoku kousite sewasite yarukaraha niban-ni kaeruto omounayo totosan naniwo iwasyansu sengoku tunda funesaemo mangoku tunda funesaemo mukou-no minatoga waruinara moto-no minato-he kaerimasu watasi-mo soreto onazikoto mukou-no teisyu-ga waruinara moto-no wagaya-he kaerimasu




子守歌です。赤ちゃんを抱っこしたり、おんぶしながら、ゆったりと歌います。


佐世保の木原町に残る子守歌です。 子守歌は、あかちゃんにとってゆったりした落ち着きのある母の歌です。 あかちゃんは、その歌を聴きながら、心地よい波に揺られるように眠りに誘われて いきます。 この歌は昔、全国各地から、皿山・三川内焼を買い付けにきた人が木原町に伝えたのでしょう。 「向こうの港が」とは、佐世保港を指しているのでしょうか。佐世保は明治時代の初めに、海軍の鎮守府が置かれ、 一漁村から人口が急に増えた軍港都市です。 又は、皿山の近くには、波佐見や有田などの有名な陶芸の里もあります。 その陶器はヨーロッパや、中国に輸出されていた歴史があり、その港、長崎 の出島のことでしょうか。 三川内焼は、青絵の具の染め付けによる唐子絵(中国の子ども達の姿絵)で知られ、 この里は平戸藩の御用窯として江戸時代から幕府や、朝廷に手厚く保護され、陶芸で栄えた町でした。 その皿山で、親のいうまま、お嫁に行かねばならない娘の言い分。 または、嫁いだ先の若いお母さんの気持ちを表している様にも思えます。 子守歌というのは、親が子どもを寝かしつける時に、歌った「寝させ歌」。 昔、仕事で忙しい親に代わって、幼い妹弟を子守りし、おんぶしたまま遊んだり、 学校に行っていた兄姉が歌った「遊ばせ歌」。 子守奉公に出てきた人が子どもを背負って歌った「子守り歌」などがあります。 どのような背景で歌われたにしても、人の思い入れがは入ったゆったりとした 子守歌は子どもの心に染みわたります。(長崎新聞 掲載)(参考資料: 佐賀 長崎のわらべ歌 柳原書店)

2004年12月12日

このベルならした


このベルならした このドア あいた このカギ はずした さあさあ なかへ はいりましょう

kono-beru narasita kono-doa aita kono-kagi hazusita saasaa naka-he hairimasyou




このベルならしたで、こどもの髪を4回ひっぱり、このドアでおでこを4回ノック、 ガキで鼻をつまみまわし、さあさあで口びるにふれる。


あかちゃんにしてあげたい顔遊びです。(イギリスのマザーグースより) 日本にも、たくさんの顔あそび歌がでありますが、この歌は西洋らしいベル、ドアなど出てきます。 昨今は、西洋化されている生活なのでこの歌は違和感がありません。 日本語の顔遊びは(例えば、眉毛のことを毛虫という言葉にする別歌など)どちらかといえば、 言葉自体をあそび、動きは静のような気がします。 それに引き換え、この歌はベルはひっぱり、ドアはノックしたり、ガギはねじると 日本にはない動な接し方が面白いと思います。 遊ぶ適齢時期としては、あかちゃんが自由にハイハイできるようになると、急に顔遊びを 嫌うようになったりしますので、それまでの幼い時期にゆうたりとうたってしてあげましょう。 他に、3.4歳になったら子供どうしとか、自分で演じるのも面白いでしょう。