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ひい、ふう、三四の


ひい、ふう、三四の うぐいすが 梅の小枝に巣をかけて 十二の卵をうみそろえ うみそろえてたつときは 一つふわどり 二つふわどり 三つみわどり 四つよわどり 五つ医者さん 六ちゃむこどん 七つなんぎのおもちゃんが コレラの病気をわずらって 石炭酸をふりかけられて うちのおっかさんな血のなみだ 血じゃなかった紅(べん)じゃった 太郎さん 次郎さん タバコ一きんかいなされ タバコかおよりゃ寺まいり 寺はどこかと本願寺 本願寺のうしろはよいところ そのよいところにこができた そのこが六つになったなら 金のきんちゃく さげさせて むこから学校の生徒が五人づれ 一でよいのが糸屋の娘 二でよいのが人形屋の娘 三でよいのが酒屋の娘 四でよいのが塩屋の娘 五でよいのが呉服屋の娘 呉服かたげて ヤサッサ ヤサッサ ハヤハヤ イッコ

hii-fuu sansi-no uguisu-ga ume-no koeda-ni suwo-kakete zyuu-ni-no tamago-wo umisoroe umisoroe-te tatutoki-ha hitotu -fuwadori futatu-fuwadori mittu-miwadori sttu-sowadori itutu-isyasan mutya-mukodon nanatu-nangi-no omotyan-ga korerano-byouki-wo wazuratte sekitansan-wo furikakerare-te uti-no okaasan-na tino-namida tizya-nakkata benzyatta tarousan zirousan tabako-ikkin kainasare tabako-kauyorya teramairi teraha-dokokato-honganzi honganzi-no-usiro-ha yoitokoro sono-yoitokoro-ni koga-dekita sonoko-ga muttuni-nattanara kinn-no-kintyaku sagesasete mukokara-gakko-no seito-ga gonindure iti-de-yoino-ga itoya-no-musume ni-de-yoinoga ningyoya-no-musume san-de-yoino-ga sakaya-no-musume si-de-yoino-ga sioya-no-musume go-de-yoino-ga gofukuya-no-musume gofuku-katagete yassasa yassasa haya haya ikko




手まりを足をかけながらではなく、つくだけの時の歌です。 まりをつくのは、四、五歳では難しい遊びです。 幼い子は、手始めに、なるだけ長い間つける様にがんばる。 それが上手くできたら、足掛け、股掛け、スカート拾い、背中のせ、などの上の技の段階がありました。


長崎・島原半島の西有家のおばあさんから聞いた手まり歌です。 単純につきながらうたうようです。複雑なつき方が難しい四、五歳のころは、ひたすら長くつくよう、熱中したものです。 そして、足掛け、また掛け、スカート拾い、背中乗せなどの難しい技に挑戦していくのです。 最近、まりつき遊びが少なくなったのは、遊びの時に歌うことを無くしてしまったからでしょうか。何かさみしい気がします。 歌の中でコレラの病気に触れているのは驚きです。昔はコロリと言われ、江戸時代の「安政コレラ」では、数万人が死亡したそうです。 明治時代にも西日本一帯で流行し、人々を震え上がらせたといいます。そんな歌でも、とんちゃくなく歌うのが、まさに子どもの文化ですね。 このコレラの文言の入った類歌が、同じ長崎県ですが、遠く離れた離島の新上五島町に残っています。 どのようにして、わらべうたという文化の交流が行われていたのでしょうか。 西有家町は、「手延べそうめん」の産地で知られています。昔、ここから「そうめん船」と呼ばれた商い船が天草や五島、壱岐・対馬まで 風に乗って行き来していたそうです。その帆船は、そうめんや米、みそ、しょうゆ、酒などを積み込み、各地の庶民の生活を支えていたようです。 歌もまた、船に乗り広がったのでしょうね。小さい船が離島に伝えた素朴な手まり歌でした。(西日本新聞 掲載)

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