わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)

精霊流しがなくては長崎のお盆は始まりません。

その精霊流しの掛け声「ドーイドーイ」について長崎手帖よりご紹介します。

長崎の盂蘭盆会(うらぼんえ)の豪華さは精霊流しに尽きるが、盂蘭盆会は梵語から来たと言われる。中国語ではユィランペンホエと発音する。これがウラボンエに転化したのである。精霊流しの掛け声は鉦げいに合わせて「ドーイドーイ」と叫ばれる。ドーイは中国語の得意であろう。即ち思い通りに行って満足するの意で、故人の霊が現世に帰ってきて家人と再会出来た喜びに満足したという程の意味であろうか 猪俣重智 ー長崎なまりーより 

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第四十七回「出島の集い」は、メンバーの松本さんの退職祝いもかねて和やかな会でした。定年退職おめでとうございます!

今月は長崎手帖No.14「泰山木と石」〜「愛八覚書」まで。

8月は休会、次回は2016年9月2日(金)どなたでもいらっしゃってください。



遅刻常習の人を長崎では、西山船と言う。長崎手帖からです。
昔西山の精霊船は一番遅く、大波止辺に来る頃は夜がほの白んでいた。転じて集会などの常習遅刻者を、あいつは西山船のけんと言い、その人が来ると、ようやく西山船が着いたけん、始めましょうかいと言って、開会したもの。
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他に、昔から金比羅山は毎月十日が縁日。そこで長崎では耳の遠い人のことを「金毘羅さん」といっていたそうです。

*十日(長崎弁=とおか=遠か) さん(3が耳の形・人の敬称)

第四十六回「出島の集い」は長崎手帖No.14「盆の思い出」〜「ザボンの月」まででした。

次回は2016年7月17日(日)どなたでもいらっしゃってください。



この会も発足から3年が経ちました。2015年6月21日は6名参加。

6月12日は棟上げ・餅まきだったので、このごろよく出島に来ています。

前回は、KTNテレビ長崎の取材をうけたので、長崎手帖を読み進めなかった。さっそく音読再開です。
ー象の皮のベルトー エキスプレスは確かわが国では初めての英字新聞ではないですか。常盤町の長崎バスの車庫の前にありましたが、もう面影は何もありません。いま梅ヶ崎中学校の運動場になっている処に深い井戸があって、その水力を利用して印刷機械を廻していたが、その時使っていたベルトが何と象の皮をつないだものでしたよ。厚さが一厘半位ありましたろうか。印刷が終わるとベルトははずし放しで、ずいぶん乱暴な扱い方でその上に重量物を載せようとどうしようとお構いなしでしたが、ただよごれるだけで、傷もつかなければ切口も出来ませんでしたよ。今考えると珍しくもありましたが、恐ろしく強いもでしたね。(大浦町 小間物店 五十川桃治)長崎手帖より
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集いのYさんは大浦育ち、この井戸は確かに深かったそうで、懐かしい昔話に花が咲きました。

出島の内外倶楽部の横庭には、オランダゆかりのミッフィーが。夜にLED点灯するそうで、オランダ総領事館からの贈りものです。

今回は、長崎手帖No.12 長崎一番帳126〜No.13 茶のみ話まで。

前回はここ。次回は7月12日(日)の予定です。



5月31日は、出島に住んでいた集いの方のTV取材がありました。

取材は、昔の写真の話、出島にまつわる「長崎手帖」の音読などです。

それにケンペルが調査報告した出島地図(出島のまわりに杭が13本打ってある・長崎市史・地誌編 昭和12年発行)を見ながらの話など。

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この長崎市史によると、今は出島(デジマ)と発音する人が多いが、元は築島(ツキシマ)と呼んでいたと書いてありました。

最後に、将来の出島の姿をインタビューされて、皆さん長崎の看板になるように願っていると応えていらっしゃいました。

表門完成が新たな杭が発掘調査で出てき半年ほど延びるもようです。今回は先に進まず、長崎一番帳125まで。次回の集いは、6月21日です。

KTNテレビ長崎の放映は6月5日の18:15~19:00の間だそうです。



4月19日にあった「出島の集い」のようすです。

長崎手帖の長崎歌・我長崎 其二は、歌で綴った明治33年前後の長崎の案内地図でした。

これに節を付けて、、のご要望ながら音読しながら節はちょっとかんべん願いました。

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124:長崎で、一番力が強いのは(ここでは起重力であるが)三菱造船所の扛重機。扛重機というよりも、長崎っ子には ジャイアント・グレーンといったほうがなじみ深い。このクレーンが港の空にそびえたのは、丁度五十年前の明治四十二年(1908)十二月十四日。英国製で、当時日本人は操作することを知らなかったので、英人技師のジャリー氏は鼻高々とでっかい物を吊り上げたり、向きを変えたりしていたそうである。 ところで、その力であるが、起重力一五0屯と言われるから、トラックなら三十台、特急さちかぜの機関車なら二輛半(石炭車を含まない)長崎料理に出る鯨(全長二十五米)なら一匹半を一度に吊上げる計算になる。なおクレーンには係員以外は登れないが、上からの眺めは市内を一望のうちにおさめて、石川五右衛門ではないが、絶景かなと思わずうなりたくなるそうである。

このクレーンは今、2015年でも使われていて、2003年に国有形文化財に登録されたものです。

4月18日放送の「ブラタモリ 長崎編2」にも取り上げられたそうですよ。

今回は、長崎手帖No.12 長崎歌・我長崎 其二〜長崎の漬物2〜長崎あれこれ11〜長崎一番帳125まで。

前回はここ。次回は5月31日の予定です。



3月14日は5名が参加されました。

今、話題の戦艦武蔵の発見が話題になり、宮田さんから勧めていただいた「戦艦武蔵ノート」も読まなくちゃです。

さて、集いはいつもの長崎手帖の音読の続きです。
慕情曼荼羅
私が、いつもうつくしく心をひかれるのは長崎の女性である。
顔かたちが、名産茂木びわに似ていて瓜実顔(うりざねがお)であるのも美人を思わせるが、あの果肉のように、水々しさが漂う小麦色の肌色は健康を思わせ、あるか無きかのうぶ毛が、いかにもういういしくて魅力的である。

それに先輩の女性が、悲話の持ち主で、今もなお語り伝えられている事は石段、石橋、石畳道の行きずりに見掛ける女性にも、何処かそんな風なものが秘そんでいる様に思われ、旅人の慕情をそそるのである。
ジャガタラお春は、才女で名文を書き送ったし、お菊さんはロチの心をゆさぶったし、蝶々夫人は、悲しくもまた晴れやかな舞台に蘇返っている。

ロマンの丘、ロマンの海、そして石畳の道までも。長崎は長崎の女性がここに三世紀に互って繰り広げたロマンの街である。  寺本春風氏の記事より抜粋。
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宮田さんがお元気になられたら、武蔵のお話を伺いましょう。

今回は、長崎手帖No.12 新長崎地図7 館内町〜碑をたずねて7 横山桜〜長崎を囲む樟樹(くすのき)〜慕情曼荼羅〜浦上廃墟〜長崎歌・我長崎まで。

前回は、ここです。次回は4月19日(日)の予定です。



今回は、集いの前に出島発掘調査現地説明会があり、参加しました。

いよいよ待望の架橋が現実になってきてうれしいことです。雨天を危ぶみましたが、江戸町側の説明会でした。

「出島の集い」は内外クラブで6名参加、長崎手帖からのご紹介です。

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長崎手帖No.12 唐人屋敷の思い出より 唐人屋敷に落付いたら門外には、一歩も出ることならんから、内から、豚屋、酒屋、と高ごえでよんで註文をする。
唐人屋敷の出入人は、何の商人でも定まって居て、仲居に至る迄外から入る事ならん。門を出入りする時は、遊女より仲居に至るまで、身体けんさして、一物も持ち出す事ならん。しかし遊女でも、下駄の歯に引き出しを付けて、サンゴジや、めずらしい物を持ち出して高く売るお客の支那人と話し合うて、持ち出す遊女も会った由。

唐人屋敷の品を一物でも密売した人は唐人屋敷の前でたたきばらいに合う。百たたき、二百たたきと云うで、つみの次第で数多くたたかれる。
密売すると利益が多いから、密売買をする。これを「バハン」と云うて、きもの太い人は唐人船が着くと、炭俵を頭にかぶって、炭俵のうかったように見せかけて、およいで内しょで船にのりこみ、商品を受け取ってあきないをする人さえあった。

炭俵を被って浮かせたように見せかけ、唐人船まで波間を数キロも泳ぐ、バハンの姿を想像してみなさんの大笑いです。

他に、長崎の方言「おめく」=叫ぶ。の文も笑いを呼びましたよ。

今回は、長崎手帖No.12 たのしきふるさと〜唐人屋敷の思い出まで。前回は、ここです。

次回は3月14日の予定です。



2015年に入って出島は復元工事が大きく前進しそうです。

出島の集いには、5名の参加され、長崎手帖も少しづつ進んでいます。

長崎手帖No.12 茶のみ話より オランダナスビ
「おそろしか、あすこはオランダナスビば食べよるばい」と言って驚いたのは、明治三十年頃のことでしたか。オランダナスビは今でこそ珍しくありませんが、当時はいわゆる舶来物、まだ一般の家庭では余り食べていませんでした。無論、値段も高うございました。オランダナスビと言うのは、今のトマトのことですよ。オランダナスビと言ったり、ジャガイモのことをオランダイモとよんでいたのは、本当に長崎らしい言葉と思います。 本籠町 本田藤太郎氏

復元工事というのは、長崎県庁裏道りから架かる出島の表門橋。そのための建築現場がドドンと出現していました。

やはり、キーポイントの橋は欠かせません。2016年秋には出島の形が整うと思うと、今から楽しみです。

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今回は、長崎手帖No.12 茶のみ話〜私の長崎案内〜道富丈吉の墓〜写真と長崎まで。前回は、ここです。

次回は2月28日の予定です。



11月23日、出島の旧内外倶楽部で集まりました。

年に一度の写真をお配りして、5名で和気あいあいの小会です。

気負わずふらりと月1回集まり、長崎手帖を音読していくことが楽しみです。

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長崎一番帳113より
長崎市にただ一つしかないものの一つは、まず寺町晧台寺の正面の大仏殿に安置されている大仏さんである。金銅の鋳造で、高さは一尺六寸(蓮台を含む)作者は明らかでないが延宝五年(1677)の作。
「かまくらや御仏なれどしやかむにの美男におわす夏木立かな」鎌倉の大仏さんは与謝野晶子に礼賛されているが、ここの大仏さんの端厳微妙な美男ぶりもそれに劣らぬと言われている。また宝冠をかぶってあるのは晧台寺の大仏さんだけで、全国に一体しかないのではないかとも言われている。有名な奈良の大仏さんも鎌倉の大仏さんも無冠である。
なおこの大仏さんが祭られる前年(延宝四年)には「浜の町」が誕生し、翌年(延宝六年)には現存の諏訪神社が再建されている。

浜の町は、1676年には出来ていたんですね。古くからの町でした。

今回は、碑をたずねて6 歳旦塚〜長崎の漬物〜長崎一番帳113〜120まで。前回は、ここです。

次回は12月26日。忘年会も兼ねますので要連絡をお願いします。
携帯090-9797-3709 山田ゆかり (12月20日までに)



第二十九回の出島の集いは、東山手で開きました。

NPO法人の長崎の風が運営している東山手甲十三番館です。

田川憲 常設版画展も開かれていていい雰囲気です。長崎手帖を読んだ後、軽食もできてゆったりできました。

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十三番館は、喫茶コーナーもあり、長崎の観光情報を旅行者に提供したり、いろんなイベントもされています。

以前、「ビールさるく」など楽しい企画もありました。地元の人も楽しめるスポットです。ぜひ、ご利用されて下さい。

今回は、長崎手帖のNo.11の浦上の丘〜銀屋町の稲荷さん〜魔羅切和尚〜昔を今にまで。

前回は、ここ。次回は、11月23日(日)出島内外クラブです。

東山手甲十三番館
入館料:無料
所在地:長崎市東山手町3-1
休館日:毎週月曜日
開館時間:火~金 10:00~16:00 土日祝 10:00~17:00
お問い合わせ:NPO法人 長崎の風 電話095-829-1013
アクセス:「市民病院前」電停から徒歩7分



9月28日は晴天の秋空でした。出島には観光客が増えています。

2014年のくんち踊町の松本さん(西濵町)もお忙しい中参加されました。

Sさんは、庄内の駄菓子「からからせんべい」のおもちゃを持ってきて下さった。木製のちっちゃな組み立て犬でした。

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長崎手帖の面白い話、魚の箱書きから抜粋。
鮃(ヒラメ)も鰈(カレイ)も幼魚は両側別々に目が付いて居て、成長するに従って一方により集まるものであるそうな。(筆者 増田高彦 増田水産KK専務)
Yさんは、以前この様子をTVで見たことがあるそうです。ほほう、見てみたかったですね。

今回は、長崎手帖のNo.11 長崎町づくしの歌〜尺八と長崎〜魚の箱書き〜稲佐外人墓地〜長崎と竹下夢二まで。前回はここ

次回は10月26日(日)。注意点:会場は、東山手甲十三番館です。



いつものように、長崎手帖を音読しながらの集いでした。

手帖の茶のみ話から「定員超過」。昔の日見峠越えのお話です。

定員超過 まだ日見トンネルが開通しない頃、あの峠を自動車で越えるのは、運転手もお客もずいぶんハラハラしたものです。何しろ八人定員のフォードの改造車にお客は鈴鳴りで中には柱につかまってステップに立っている人もあって、あの狭い曲がり曲った道を行くのですからね。エンヂンがかからないと戦時中の木炭車のようにお客に後押しをさせたり、下りになってブレーキがきかなくなったと思った時は、事故の未然防止で、わざと自動車を溝に突っこんだと言うエピソードもあったようです。(丸寿タクシー 原一郎氏)

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日見新道・切通し(明治15年)は、峠越えがきついので山を切り崩して新道(有料)をつくったのです。

今は、長崎芒塚IC(インターチェンジ平成16年開通)できて、切通しや日見トンネル(大正15年開通)も昔の交通手段になりました。

でも、わらべうたの親子にとっては、饅頭ツアーで毎年通ったので日見峠の関所、切通しはお馴染みです。

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10年間、毎年春に子どもたちと長崎街道を通ったことがいい思い出です。

第二十三回は、長崎手帖No.10の周庵先生を憶う〜茶のみ話〜長崎の夜(写真)〜碑をたづねて5 休石まで。

宮田さんがお休みでしたので、「三菱の徽章・きしょう(バッヂ)の変遷」は次回に。

次回は、5月24日(土)の予定です。どなたでも参加できます。気軽にいらっしゃいませんか?



長崎の出島で月1回集り、昭和30年代の長崎手帖を音読しています。

第二十二回は、いつもの長崎内外クラブのレストランです。

出島は春めいて観光客で賑わってきました。
長崎一番帳 104より
ソクデ、ブリ、キリ、ダリ、ガレン、ドンジュ、サイ、バンド、キワと言うと、一体どこの国の言葉かと思われるが、これは野菜屋果物屋さんが仲間同士で、今でも時々使っている秘密符号で、一から九までの数の名称である。例えばソクキリと言えば十三のこと。さて長崎で一番古い果物屋は諏訪町の近金果物店(近金吉男氏)で、大正十三年創業三十五年になる。 当時青果を取引する人達の服装は、筒袖に角帯、ゴム足袋と言ういでたちで、取引は袖の中(袖ぜりと言う)で前記の符号を使って相手の指をにぎりながらされたもので、黙々交渉だった。


集いも継続が力でもう2年余り。長老の宮田さんから会のアピールを促されました。

出島の最後の住人だった方々は、懐しいオランダ商館跡地を忘れていません。2016年に出島表門橋が架かるのを楽しみに継続しましょう。

第二十二回は、長崎手帖No.9長崎一番帳〜No.10四十年の歳月〜病院の坂道まで。

次回は、2014年4月20(日)の予定です。

どなたでも参加できます。気軽にいらっしゃいませんか?



2014年になって初めての「出島の集い」です。

長崎手帖 No.9の碑をたずねて4の「まよい子志らせ石」です。
電話のなかった明治初年の警察では迷い子がでると非常にこまった。そして思いついたのがこの石である。「迷い子」を見つけた人はこの石の南側「おしゆる方」に連れて行くとよい。たずねる人は北側の「たづぬる方」に立っているとよい。この石は明治十八年長崎警察署の人達によって建てられた。(所在地諏訪神社入り口)尚この石と同種のものが清水寺の境内にもある。  解説 越中哲也
さっそく、諏訪神社に行くとあった、ありました!!



電話、ましてや携帯電話など想像もつかなかっただろう146年前の明治初年(1868年)のころの事です。

迷い子をさがすのに苦労して、有志が考えて碑を建てたのですね。

今は便利になった分、人は工夫をしなくなって情けないのかもしれない。



第二十回は、No.9号の長崎なまり〜浪花節と長崎〜新長崎地図4三つの川口〜碑をたずねて4「まよい子志らせ石」〜長崎町づくしの歌まででした。

次回は、2月11日建国記念日です。

どなたでも参加できます。気軽にいらっしゃいませんか?




今回は、新しく大田由紀さんが参加されました。

太田さんは、「長崎くんち考」を長崎文献社からだされた方です。

だんだん、長崎の知識人が気楽に集まってくださってうれしいです。

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長崎手帖から:スポーツの祭典・第9回オリンピックは昭和3年アムステルダムで開催。

この時にターザン映画のワイズ・ミュラーが出場、水泳の自由型で活躍したらしい。

長崎の最も普及されている伝統の泳法は、天保十年(1839年・174年前)に創案された小堀流。

泳法にはこの他に神伝、水府、向井、観海、能登、岸倉、小池、水任など十指にのぼる流儀があるそう。

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ちなみに、TOKYOオリンピックは、第32回目・2020年開催されます。

第十八回は、長崎手帖No.7・8合冊号の長崎のあれこれ〜諏訪ノ森(続)〜長崎一番帳まででした。


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