わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)

昭和30年頃、幼い私たち妹弟は長崎出島19番地に住んでいました。

直ぐ近くの長崎出島5番地は、耳鼻科の 海江田病院 だったのです。

先日、その病院の奥様だった海江田百合子さんに会いにいきました。
今は出島史跡整備のため出島をでられましたが、その頃の様子を懐かしくお話
して下さいました。

R0035273

百合子さんが海江田家に嫁がれたのが昭和28年だったそうです。
やはり、海江田さんのルーツは薩摩の伊集院。士族の海江田信義のご一族でした。

先々代、海江田純氏は大正11年に長崎大学医学部(元長崎医専)を卒業されて
昭和6年に長崎出島5番地で開業されたそうです。

出島5番地は、幕末から明治にかけて長崎に住んでいたフランス人貿易商ピニャテル家の
自宅と会社があったそうです。
そのピニャテルの洋館を引き継がれたのが海江田氏とわかったのでした!!

R0035097

ヴィクトール・ピニャテルは大正11年に亡くなり坂本町の長崎国際墓地に。
トーマス・B・グラバーと一緒の坂本町の地に眠っています。

海江田百合子さんには、出島のご近所の方々に加え、千馬町、おくんち、薩摩などのお話が
たくさん、たくさん、、、懐かしくて。お世話になりました。

やっと、出島5番地の転遷が幕末まで遡れてうれしいです!!


この本を知ったのは” 本「かあさんのレシピ」” に載っていたからでした。
昭和30年ころの懐かしい中央橋の写真にクギズケになりました。

R0035270

母に見せると、バカ盛り食堂は後ろの通りまで間口が細長く大きかったそうです。
弟に見せると、桃カステラを買いにパシリさせられたなどポロポロとおもいでが。

前のページには、”思案橋終点 昔の岡政(現大丸浜屋がみえる” とあります。
戦後ネオンが流行ったらしく、ネオンが光光と輝いて貧しくとも希望がある写真です。

R0035266

母の話で、当時は大きな十八銀行の動くネオンもあったそうです。
そのネオンは、通帳がダンダンダンと弧を描いて飛んで18銀行に入っていくらしいのです。
通帳が届くと、幼い私は「モッテッター、モッテッター、モッテッター、」って。
たぶん、1歳ぐらいでしょう。昭和27年ですね。 おぼえていないけど、、、。

岡政が大丸に変わる時もガッカリ。こんど2011年7月で大丸も無くなるのはガックリ!!
浜町のデパートが、、、、さびしいな。

時代がガラガラと変わっているのでしょう。
でも、オフ会でお会いしたの川崎啓一郎さんみたいに「前向きにまいりましょう!」ですね。

私も、ゆかいな日々をね!ポツポツと。


昭和30年前後の長崎出島オランダ商館跡地の住人を探す一歩です。

先日の松本さんのアドバイスでゼンリンの地図を手がかりに、長崎県立図書館の郷土資料室に 行ってきました。

R0034885

私はゼンリンの地図は昔からあるものと思っていたらイヤイヤ、そんなものは無かった時代だった。

昭和36年(1961年)に株式会社ゼンリンは善隣として設立されています。

それ以前の長崎地図と言えば、、、。 ありました!! 昭和29年:長崎市街地図です。

R0034892

昭和29年といえば私は3歳です。 郷土資料室で、その昭和29年:長崎市街地図をめくると、、、次のお三方の言葉に原爆投下の長崎を是日にでも復興させようという熱い気持ちが。

原爆投下から9年、遮二無二、、長崎市民は働いたでしょう。涙がジンワリです。

その地図の1ページ目に、当時の長崎市長 田川務氏の推薦の辞が。昭和29年9月10日

R0034893

長崎国際文化協会 常任理事 木野普見雄氏 推薦のことば
R0034912

長崎地方法務局長 原田之人氏 推薦の辞
R0034913

思いがけずドアを開けたら、、、長崎の先人たちの生きてきた言葉にグサリと胸をつかれた気がしますよ。
この市街地図を編纂するのにどれくらいの人が関わったでしょう!! その方々の努力を思うと頭がさがります。

父の残した昭和29年5月14日の新聞のスクラップです。
EPSON002

父の履歴書を見てみますと昭和28年12月から出島阿蘭陀商館跡地の工事に携わっています。
丁度、長崎市街地図編纂のころは出島の工事は中断していた時もあり大変だったようです。

その当時は、右を見ても左を見てもバラック小屋みたいな家が立ち並んでいました。 今のように便利な世間ではなく出島も”工事現場と新世界”に書いたような時代でした。

その地図の中には復旧前の、浦上天主堂、眼鏡橋、原爆公園などの写真もありました。 市街地図は善隣とは又ちがって昭和30年の長崎の味がにじみ出ていましたよ。



私は、長崎の出島オランダ商館の跡地内に小学校から高校まで暮らしていたんです。
みんなウソって!!思うでしょうね。 
そのことは 前回 もいいましたが、、、ここが、私のルーツと思っています。

R0030894

平成23年の出島→昭和の30年前後の出島へ、、、、、出島さがしがまた一歩ですよ。
その先がまた解って、、、、、大正→明治?と逆行できたら面白いですね。
明治以降、誰がどのようにして出島に住んだんでしょう?
住んでいたからの素朴な問い掛けです。

R0030916

今回は、昭和30年前後にお隣りだった漬物屋さんの松本さんに会いにいきました。
すでに当時、住んでいらしたおばあさんは亡くなられていて松本さんのお孫さんに
当たる方でした。
気さくな方でいろいろ教えて頂きましたよ。

現在、長崎市馬町にある長崎市民活動センターの「ランタナ」の所長さんをされています。

R0034708

今も、松本さんのご実家は銅座町の漬物問屋さんです。
そのころ中学生の松本さんは「 ”オランダ屋敷”と呼んでいたんですよ」と。
そうです!そう呼んでいました。

当時、おばあさんは犬と一緒に漬物倉庫に暮らしていたそうで、ご自分は住んだ事はないと。
今はご両親も亡くなられて弟さんが家業を継がれてているそうです。
お母さんが生きていらしたら昭和の出島のことがわったかもしれませんが、、、、、。

我が家は当時、松本さんのおばあさんから一部屋借りていたんです。
やっぱりでした。隣さんの大きな倉庫引戸をヨイショと開けると薄暗くてガランとしていた
思い出と同じでした。

R0034702

松本さんの隣は吉田塗料店、前は朝長病院、海江田病院、銭上倉庫などなど、、、
酒屋さんもあったのだけど名前が??
すると「県立図書館の昔のゼンリンの地図を手がかりにすれば?」とのgoodなアドバイス。

その当時のことやあれこれ話しているうちに、私の中で五里霧中だった長崎出島さがし
の手がかりがまた一歩、進めたように思えましたよ。


父から14年前に「長崎の洋風建築」という父の書いた本をもらいました。
本をもらって4年後の2000年9月21日に86歳で父は亡くなりました。
3人の子どもヘ一冊づつ形見のつもりであげたのでしょうが、私は中身も読まずに
長いこと本棚にしまっていました。

R0032049

父が亡くなって4ヵ月後はじめてその本を手に取りました。
身内で月命日の法要後、父がした仕事を巡ろうということになったのです。
光源寺→興福寺→眼鏡橋→崇福寺→リンガー邸→グラバー邸→出島オランダ商館跡を
訪ねてみました。
母、子ども、孫たちで訪ねることができて良い思い出になりました。

昔のことを振り返ると懐かしさがこみ上げてきます。
当時の写真などを整理していたら出島の工事現場でしょうか、大工さんや石屋さんなど
懐かしい顔が思い出されます。
石屋さんの坂本さんは、やさしい人で大きな黒い目のまゆがくっきりした物静かな人でした。



前列の右端が父、坂本さんは右端から4番目の方です。
私は現場に遊びに行っては皆さんにかわいがってもらったことでしょう。
今となっては名前は覚えていなくてもみなさんの顔はシッカリ記憶に残っていて
前回の「道」の映画のシーンを思いだすようなデジャヴな感じがします。

2000年からまたこの本は10年間眠っていました。
その間、息子は通っていた長崎県立北高の図書館の方からこの本が貴重な本だと
教えてもらったことがあったそうです。
意外なところで評価されて息子と共にびっくりしました。

父は、1967年(昭和42年)に本を書いてから後年、東大に論文を出し博士号を取り
それからは学術の分野へ方向転換しました。
その後、息子が日本建築学会大会学術講演梗概集の父の論文が面白いと勧めたのが
きっかけでこの本は10年ぶりに起きてくることになります。

私は建築などは門外漢なのですが、父は明治維新前後の激動の歴史とリンクしている
長崎の建築は面白いと思ったにちがいないと思います。
だって何年も毎晩、倉庫の人になっていたんですもの。

好奇心旺盛なのは父譲りでしょう、私の目線でこの本を紹介していこうと思います。


父のスクラップ帳から西日本新聞の昭和28年1月28日の記事の見つかりました。

0qw2hO

記事の中の出島の復元計画見取り図を見ているとk病院とは海江田病院
県立病院は出島病院、隣が内外クラブ、朝永病院でした。
海江田病院の向かいは銭上倉庫があったと記憶しています。

旧長崎内外クラブにはオランダ商館内から移って数年間暮らしたこともあります。
クラブに入ると石の通路があって、1階をキッチンに使っていました。

2階の居間も西洋風なので天井が高く、気持は良かったのですが、、、、
自分たちで壁や天井に白いペンキを塗るのが大変でした。
だって面積が広くて、広くて。  でもあれ以来ペンキ塗りは好きです。

R0030867

それに、今からすると当たり前のことでしょうが、、、、
内外クラブの部屋の間仕切りが重い大きな丸のノブのついたドアだったのです。
建物自体は古かったのですが昭和30年〜40年代当時には居間がドアで区切られるのは
ハイカラだったんですね。

私たち家族は西洋の個室の先がげをいく建築物に暮らしてみて、その生活空間が
なじんだのでしょう。
後年、父は西山と千々に家を建てた時、普通の家よりも天井を高くし、ドアも特別に
つくったわけが解ったような気がします。

今考えると懐かしいくも、貴重な空間に暮らした思います。


父の机を整理していたら木箱が見つかりました。

木箱の蓋に

「昭和23年3月1日午前2時半
卒業製図完了 懐中電燈の光にて
我が 三歳(ねん)の業なりぬ
熊本工業専門学校建築家
山口光臣
  三十五才」

を見て頑張ってきた父の姿が目に浮かびます。

R0031872

毛筆書きの父の履歴書二枚もみつかりました。

一枚目は本籍、現住所、生年月日に学歴、職歴です。
昭和15年に4ヶ月間西浦上小学校に勤務した後、満州に渡っています。
その後、昭和20年に官立彦根工業専門学校に入学しました。
しかし、終戦後に満州に渡っていた兄家族を心配して全員を連れ戻しに
満州へ行き引き上げたのが昭和20年11月だったと聞いています。
昭和21年春に現熊本大学工学部に編入学、木箱の蓋にかいた23年に卒業したのです。

axV6qQ

昔の人らしく和紙にきちんと書かれた工事歴をみると満州から帰国して
長崎の高島、そして出島オランダ商館跡復元工事を施工監督したことが書いてありました。

何事も正面から集中力をもって行動する人でした。

« 前ページへ