わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)


アタマサマ マイテ マツバラ コエテ
メイシャ二 ヨッテ ハナイッポン ヌスンデ
ホウボウデ シカラレテ ミイミイ ナイテ
クチオシ コトヨ ムネンナ コトヨ
シリモセン クセニ オヘソガ ワラウ



あそびかた

頭、顔、からだを順々にさわってあそぶうたです。
頭様(頭上)まいて、 松原(まゆげ)超えて、 目(目の横)医者に寄って
花(鼻すじ)一本盗んで、 方々(頬・ほほ)で叱られて、みいみい(耳たぶ)泣いて
口(唇)おしことよ、 むねんな(胸)ことよ、 知り(尻)もせんくせに
おへそ(お腹)が笑うの各フレーズを4回づつうたいながら触ってあげる。

きろく

子どものかわいい目やほほをやさしくタッチするスキンシップあそびです。

あかちゃんには、まずお母さんとあかちゃんが、しっかり目を合わせ、 ゆったりとなでてあげましょう。

あかちゃんが途中でいやがったり、気分がすぐれない時はサッと やめましょう。

可愛いさかりの子どもにたくさんしてあげて下さい。特にあかちゃんの時からしてあげたいうたです。



うた

ぴーぴー ぐ さ ぴーとな れ なら んと あたまを ちょん ぎる ぞ



カラスノエンドウ(ピーピー草)のさやで笛をつくり
ピーピー吹いてあそびます。

きろく

このわらべうたは、春の楽しいあそびです。

長崎では、4月下旬から5月中旬までに咲くかわいい豆科の
カラスノエンドウでピーピー笛ができます。

作り方は、ピーピー草はさやの茎のほうを少しちぎります。
さやの片方だけさいて中の種子をきれいに取り出し
唇(くちびる)ではさみ、ピーピー鳴らします。

なかなか、吹くのに唇と息の使い方のこつがいりますが
最初はピッ、ピッと短くても力まないで吹くとピィーーーと
長く吹けるようになります。

上手になると、唇に3.4本もはさんで大きな音で吹けたりします。
カラスノエンドウで、ままごとあそびをしたりもできます。

春の素朴なあそびです。


うた

ハナチャン リンゴヲ タベタイ ノ ハナチャン



あそびかた

「ハナチャン」で鼻を2回、「リンゴヲ」でほほを2回、「タベタイ」で口びる2回、 「ノ」でひたいを1回、最後の「ハナチャン」でまた鼻を2回さわる

きろく

顔あそびです。あかちゃんにしてあげる時は、声かけしてからはじめましょう。

あかちゃんと目を合せてからゆっくりやさしく、軽くちょんちょんと顔をさわりながら うたいます。

「ノ」の所でリズムが変わり目が面白いあそびうたです。「ハナチャン」ところを名前にかえてもいいと思います

(参考資料 わらべうたであそぼう 明治図書)


うた

1・イギリス イギリス イギリス
2・日本 日本 イギリス 日本
3・上海 上海 イギリス 日本 上海
4・横浜 横浜 イギリス 日本 上海 横浜
5・五島 五島 イギリス 日本 上海 横浜 五島
6・武蔵 武蔵 イギリス 日本 上海 横浜 五島 武蔵
7・名古屋 名古屋 イギリス 日本 上海 横浜 五島 武蔵 名古屋
8・八幡 八幡 イギリス 日本 上海 横浜 五島 武蔵 名古屋 八幡
9・九州 九州 イギリス 日本 上海 横浜 五島 武蔵 名古屋 八幡 九州
10・東京 東京 イギリス 日本 上海 横浜 五島 武蔵 名古屋 八幡 九州 東京




あそびかた
1から10の数の地名を歌いながらまりをつき、歌詞の最後の言葉(イギリスのス)で
まりを足掛けしたり、片腕に片足を掛けたまままりをついたりしてあそぶ。
途中で失敗したら交代する。

きろく

昭和にはやったまりつきうたのご紹介です。
このうたは主に女の子の遊びで、数に合わせて一番のイギリスから十番の
東京までの地名を反復しながらまりをついていきます。

私は、このうたで小学生のころゴムまりあそびをしました。
最後の東京までいくのは、なかなか難しかったものでした。

当時の女の子の服装はまりつきに欠かせないプリーツスカート。
最後にまりを股(また)の間にくぐらせて後ろのスカートで丸め込むのに
ちょうどよかった思いがあります。 長崎でも冬にはつららが下がり、スカートに
タイツ姿。ズボン姿やカイロはなく、しもやけをつくりながらあそんでいました。

歌詞に、一つだけ地名でない戦艦武蔵の武蔵が入っているのは、戦後の名残でしょうか。
八幡といえば、当時は八幡製鉄所が大きな会社として子ども心に印象深くあります。

わらべうたは、子どもたちがその時代背景や、風土に影響を受けて語呂の良いリズムや
音に合わせてあそんで伝承してきたものです。
ですので、大人がまず意味を考えてしまう思考のパターンを取るのではなく
直感的な言葉で自由自在にあそんでいきます。

このうたは、戦後の混沌(こんとん)とした時代が安定してきて、日本中が
東京オリンピック(昭和三十九年)を目指し急成長の渦の中だったような気がします。
うたが時代を背負っていたというのでしょうか。
(2005年5月1日長崎新聞 掲載)