わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)

栗を買ったからには日を置かずに剥かなくてなりません。ガリガリッと剥く作業を画期的に楽チンにしてくれたのが 栗むき器

このハサミみたいのをどんなに使うのか、はたして本当に楽チンなのか?みなさんにご紹介します。

Untitled from yamada on Vimeo.


栗ご飯は好きでも剥くのが大変なので・・ついつい市販の栗ご飯パックになるのかも。しかし、市販のものと美味しさが雲泥の差です。ぜひ、自分の家の栗ご飯にトライして下さい。

我が家の栗ご飯は、渋汁を使うので香りと風味がひと味ちがいます。次回に。。


栗むき器と栗蒸し羊羹

毎年、秋になると母が栗を剥いていました。栗、渋皮、もち米を小袋に分けて即、栗ご飯に炊くだけにして。

昨日、島原からの産直の野菜屋さんで栗が1キロ450円。 安い!やっぱり、栗ご飯はのがせませんぞ、今年からは自分で剥くのです。実家のあの栗むき器で剥くと楽勝と。(あっ、クセで楽勝って言ってしまった。)

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それに今日は、うれしくも栗のゴロゴロ入っている栗蒸し羊羹に出会いました。こんな栗のたくさん入った羊羹は初めて。口に入れるとホックリと大粒の栗が割れて甘いんです。

わあ〜ってみんなの喝采を浴びるほど・・あちこちで「ぜったい、熊本に買いに行きたいね!!」の声があがりました。

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ちなみに、季節限定でお取り寄せは無理らしい。残念。。本当に熊本まで買いに行こうかな?って思えるほどの逸品でした。

極上の栗蒸し羊羹をありがとうございました。



動乱の幕末を行く 19   長崎新聞

「龍馬伝」が始まって長崎も脚光を浴びてきて新聞や講演会、出版類もたくさんでてきました。
先日も「ジョン万次郎のすべて」という講演会に行ってきました。

長崎新聞の2009年10月17日に掲載されている記事です。
「龍馬と長崎  動乱の幕末を行く 19 」
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あら、記事の写真は懐かしい出島の石倉庫です。
新聞の写真には、龍馬が購入したライフル銃を保管していたとみられる「19番石造倉庫」
を一部復元した「旧石倉」と掲載してあります。動乱の歴史があった倉庫なのですね。

「龍馬伝」が放映されてブームになっているからというより、私にとってはもっと
身体的な捉えかたで核になっています。

父が毎晩この倉庫の人になり、2階に畳をしいて炬燵に座り研究していた姿のこと。
弟がオシオキに倉庫に閉じ込められたりして妹が助けに行っていたこと。
子どもながらに倉庫の中にいろんなくんちの山車や歴史的に貴重なものがゴロゴロしていたのを
薄暗いガランとした空間のなかに日常として見ていたこと。
鉄の窓を開ける時の重みとか、まぶしい光のさしてくる外と内のコントラスト。などなど、、

私は、そんな身体的な懐かしさが核になっていたので5年前に長崎新聞で「長崎のわらべうた」の
1年間連載が始まったとき出島オランダ商館を舞台にしたかったのでした。

2004年11月からの掲載の中で長崎のわらべうた、”あっかとばい”と”イギリス イギリス”を
この出島の倉庫の中で録画したわけでした。
わらべうたのグループの名前”あっかとばい”もここからもらったのです。

私は、自分の立ち位置から長崎で幕末にどんな人物が活躍し、その当時どんな建物が
建っていたのか解っていけたらと思います。

父のやってきた「長崎の洋風建築」や、出島オランダ商館内に育ったことを
私なりの基板にしたいと思います。


五島で釣ったというビキビキのイトヨリとエソを頂きました。
これは、刺身にしなくちゃ!!と意気込みました。

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やっと、私の吉光の出刃包丁と柳刃の出番がやってきました。
前回 のハトポッポはステンレスの包丁で難儀したんでした。
本格的に出刃包丁でこんな大きな魚をさばいたことは無かったんです。
先日のネリゴの刺身は息子作ですし。

修行がたりませんが、、、、やっと三枚おろしにしました。
やっぱり、包丁が揃うとやってみようのモチベーションが高くなります。

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そろそろ、ショアジギングのモチベーションの輪が出来てきましたよ。
包丁を揃える→魚をもっと上手にさばきたい→たくさん大きい魚を釣ろう→青物を狙うぞ→
自分のロッドやリールが要る→大きい魚がつれる(未定だけど)→美味い刺身が口に入る。

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確して趣味が本気になるのです。

でも、刺身にしてすぐ食べたら、コリコリっとそりゃあ美味しかったんですが
冷やしがイマイチと楽しみを先延ばしにして冷蔵庫に寝かして3時間。
さあて、焼酎のつまみにと食べたら、、、作りたてが美味しかった、、なぜ?

冷やし過ぎたせいかなあ。 ワカランとです。


今日は鍵盤はいくつあるの?から始まりました。
白鍵だけかぞえたり、たくさんすぎて数え間違ったたりそれぞれに答えを出しました。

次は、一人づつの鍵盤スキーです。
手では滑りがよくないのでフェルトで作ったカッパのお皿を使いました。
最初は力の入れすぎでなかなかスムーズにいかなっかたり、上滑りしたりワアワアです。
でも、数回したらコツがわかるようになりました。



次は黒鍵のかたまりは3ツと2ツのゆび押さえするのですが、、、、
教室のバランスボールやおもちゃが気になっているようですね。
でも、あちこちに楽しそうに脱線をしながらもピアノであそんでいる時の顔や言い訳が
またかわいいヤンチャな4人組です。


父から14年前に「長崎の洋風建築」という父の書いた本をもらいました。
本をもらって4年後の2000年9月21日に86歳で父は亡くなりました。
3人の子どもヘ一冊づつ形見のつもりであげたのでしょうが、私は中身も読まずに
長いこと本棚にしまっていました。

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父が亡くなって4ヵ月後はじめてその本を手に取りました。
身内で月命日の法要後、父がした仕事を巡ろうということになったのです。
光源寺→興福寺→眼鏡橋→崇福寺→リンガー邸→グラバー邸→出島オランダ商館跡を
訪ねてみました。
母、子ども、孫たちで訪ねることができて良い思い出になりました。

昔のことを振り返ると懐かしさがこみ上げてきます。
当時の写真などを整理していたら出島の工事現場でしょうか、大工さんや石屋さんなど
懐かしい顔が思い出されます。
石屋さんの坂本さんは、やさしい人で大きな黒い目のまゆがくっきりした物静かな人でした。



前列の右端が父、坂本さんは右端から4番目の方です。
私は現場に遊びに行っては皆さんにかわいがってもらったことでしょう。
今となっては名前は覚えていなくてもみなさんの顔はシッカリ記憶に残っていて
前回の「道」の映画のシーンを思いだすようなデジャヴな感じがします。

2000年からまたこの本は10年間眠っていました。
その間、息子は通っていた長崎県立北高の図書館の方からこの本が貴重な本だと
教えてもらったことがあったそうです。
意外なところで評価されて息子と共にびっくりしました。

父は、1967年(昭和42年)に本を書いてから後年、東大に論文を出し博士号を取り
それからは学術の分野へ方向転換しました。
その後、息子が日本建築学会大会学術講演梗概集の父の論文が面白いと勧めたのが
きっかけでこの本は10年ぶりに起きてくることになります。

私は建築などは門外漢なのですが、父は明治維新前後の激動の歴史とリンクしている
長崎の建築は面白いと思ったにちがいないと思います。
だって何年も毎晩、倉庫の人になっていたんですもの。

好奇心旺盛なのは父譲りでしょう、私の目線でこの本を紹介していこうと思います。


昭和30年1月に祖母と父が並んで写っているの写真です。
出島オランダ商館跡復元工事の監督をしていたその現場です。
たぶん、お正月ではないでしょうか。

オランダ商館復元工事S30年1月・041

その頃、私は3歳10ヶ月、母とよく出島の復元工事現場に行っていたようです。
その出島に近い湊公園の裏に「新世界」という映画館がありました。
両親は映画が大変好きだったので私を連れてよく行っていました。

昭和30年代に長崎市内にはたくさんの映画館があったのですが、「新世界」は
特別に大きかったと思います。
映画のストーリはわからなくても心に残るシーンは今でも覚えています。

イタリア映画のヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」のうら悲しい感じ。
昭和32年に日本で上映されたフェデリコ・フェリーニの「道」も観ました。
ジェルソミーナの表情、海のぎらぎら光るシーン、きれいなメロディーなど。

オランダ商館跡S30年5月im049

父たちは新世界で観終わった映画話に花が咲き、湊公園から銭座町まで自転車を
ひいてトボトボと歩いて帰っていたそうです。
その自転車の荷台に乗っていた私はよく落っこちたらしく昭和30年ごろの
ほのぼのとした笑い話です。


アリタのジェラートを食べたいなあ、、、、と思った時にタイミングが合わなくて 夏が過ぎてもう秋雲になった秋分の日に食べに行きました。

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ジェラートはイタリア語で「凍った」。イタリア人の夏には欠かせない氷菓だそうです。乳脂肪分がアイスクリームのより少ないので低カロリーらしく、気になる時はこちらがよいかも。

でも、グリコから80カロリーの美味しいカロリーコントロールアイスなるものが発売されたそうです。ちなみにハーゲンダッツのカップ、ショコラクラシックは280カロリーですよ。あなたなら、どちらを選びますか?ってアイスの使者が両手に差し出したら、、、、、う〜ん!迷うなあ。

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また、今年の夏はとくに暑くてビールやコーラ、アイスがたくさん売れたそうです。飲料業界では自販機の補充が間に合わないくらいでだったそうですよ。それに、スイカが高かったなあ。ビックリ、大一玉2000円もしました。

我が家のお手軽氷菓って熟れすぎたバナナとスイカを冷凍するだけ、超カンタンです。これも果肉100%でしかも添加物0、美味しいですよ。


秋の味覚のお芋が店頭に出まわると食べたくなりますね。
一個だけ買えばよいものをついついたくさん買ってしまいます。
まずは、お芋をふかして食べました。

残ったお芋はまたふかしてスイートポテトにしてアップルと一緒に
パイ焼きをしょうと思い立ちました。
ようするに、スイートポテトアップルパイです。

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パイは冷凍、中身はレシピも見ず適当にマッシュしたスイートポテトに砂糖と牛乳、バター少し。
そのテンコ盛りのスイートポテトの上に、砂糖なしのアップルを乗せて焼きました。

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みごとに、美味しそうなスイートポテトアップルパイが出来上がり!!

しかしながら、、、、シマッタ、長崎が遠かったんです。
長崎では、甘さが足りないことを「長崎が遠うございまして」っていうんです。

砂糖がたくさんに南蛮船で運ばれて庶民の口に入ってきたのが長崎です。
だから、長崎の醤油も大村寿司も甘さたっぷりです。

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シマッタ、甘くなければパイではありませんでした。
長崎の遠かスイートポテトアップルパイは蜂蜜をかけて食べました。


うた

うえから したから おおかぜ こい こいこい こい



しぐさあそびです。

布を両手でもち上下にふりながらうたいます。
大布を大風にみたててその下をくぐったりもします。

きろく

あっかとばい”では、大布(薄い裏地布)を全員で持ち大風をおこす
ところから始めます。
みんなの気持ちがうたと一緒になり大風をつくると、次はいっせいに大布を
上空に放すあそびをします。 他に、大風の下を一人ずつくぐるあそびもします。

タイミングをそろえ二人組、三人組、全員でくぐります。
くぐるタイミングをつかみ、しかもペアの息がそろってくぐれた時は
ワアワアと楽しそうです。

前回の「うえからしたから」No.132 から3年がたちました。
それぞれ小学校に入学したり、妹や弟、新しい仲間が増えたりしても
変わらず定番のあそびは続いています。

同じようなあそびは「稲佐ん山から」 No.11 があります。
(参考資料:わらべうたであそぼう 明治図書)


20日、大村に長崎と同じ講演会を聞きに行ったんです。
なんで2回も!!って、、、、よく解りたかったんです。頭の整理をつけたくて。

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ージョン万次郎の生い立ちと坂本龍馬ー  (頭の整理のために)

1827年:万次郎、土佐の漁村に生まれる。

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1835年:坂本龍馬,土佐に生まれる。(万次郎と8歳ちがい)
1836年: 9歳、父が他界。家計を助ける。
1841年:14歳、運命の漁に出て5名遭難、ホイットフィールド船長に出会う。
1843年:16歳、船長に迎えられ万次郎一人アメリカ生活が始まる。他4名ハワイに残る。
1844年:17歳、バーレット・アカデミーで英語、数学、測量、航海、造船技術などを学ぶ。
1846年:卒業後、1846年から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活する。
    帰国の資金の為にカリフォルニアの金鉱にて金を採掘、600ドル調達。
1851年:25歳、ハワイに残った3名と薩摩藩に服属していた琉球に上陸、帰国。
    海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の
    長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。
1852年: 河田小瀧が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。

1853年:龍馬,江戸「千葉定吉道場」入門。ペリー来航。
1854年:龍馬,土佐に帰り河田小瀧宅で万次郎の世界観を学ぶ。

1860年:33歳、勝海舟らと咸臨丸でアメリカへ。

1862年:龍馬,勝海舟の門下生になる。
1864年:龍馬,30歳,勝海舟に随行して初長崎へ。

1866年:39歳、土佐の開成館に赴任する。
また、後藤象次郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔」を購入。

1866年:龍馬,薩長同盟成立。寺田屋襲撃事件。幕長戦争に参加。
1867年:龍馬、4月「海援隊」発足。6月後藤象二郎に船中八策を提案。
同年11月京都「近江屋」で闘死、龍馬33歳。

1868年:41歳、明治維新後、開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。
1870年:43歳、明治3年,普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。
帰国後に軽い脳溢血を起こし、回復するが、以後は静かに暮らす。
時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。
1898年:72歳、明治31年死去。

ージョン万次郎ー 日本初
* 『ABCの歌』を日本に初めて紹介した。
* 日本で初めてネクタイをしたとも言われる。
* 初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。
* 日本人で初めて近代式捕鯨に携わった。
* 日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった。
* 「新アメリカ航海術」を和訳している。
注)中濱 萬次郎=ジョン万次郎:井伏鱒二の「ジョン萬次郎漂流記」でこの名前が一人歩き。
参考資料:Wikipedia

私の「ジョン万次郎のすべて」講演会2回の後感想です。
一回目はやっぱり聞く耳がダンボだったなあ、でも大村では面白いガイド冊子をもらえたんです。
「坂本龍馬副読本&21世紀長崎県観光便覧」です。参考になりましたよ。
このパフレットは大河ドラマ「龍馬伝」にピントを合わせていてオモシロかあです。


今日19日、長崎市民図書館の多目的ホールで「ジョン万次郎のすべて」の講演会がありました。
中濱万次郎直系5代目にあたる中濱京さんの講演でした。

ジョン万次郎はどこかに漂流して帰国した人とぐらいしか知らなかったのですが、、、
にわかに、どんな生涯だったのだろう?と龍馬伝の影響もあって聞きに行きました。

まず、会場に入ると演歌が流れていたんです。へええ〜演歌をなんで??って思ってたら
話の最初にこの音楽は村田英雄さんの「ああ万次郎」ですって。
ここで、皆さん爆笑です。こんな風に和気あいあいと話は進みました。

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講演の内容の解りやすさもさながら中濱京さんのプレゼンの丁寧さにびっくりしました。
パワーポイントを使って解り易くしかも控えめで丁寧な話しぶりに
ワークショップをやっている私としては大いに参考にしたい講演会だったんです。

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このごろ、幕末のころに活躍した人のことに興味があって去年の観た
高杉晋作と明治維新革命、劇団はぐるま座の「動けば雷電の如く」も面白かったんです。
その時は、高杉晋作役の人がイキイキと芝居をしてる姿がまぶしかったんです。

好きで役者になった人の意気込みが伝わる。とNajimiに書いています。
今日の中濱京さんやはぐるま座の人たちがイキイキとしてることってズンと伝わりますね。


「いそかぜ」船長に、また明日もお願いしますって!!
わあ、息子に沖磯釣りの魔法がかかっていよいよ佳境に入っています。

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帰宅したら包丁さばきもテキパキと、ネリゴと、オオモンハタの刺身の出来上がりです。
よく冷えたビールで沖磯、ショアジギングに乾杯です。

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しかしながら、連日の沖磯通いのおかげで美味しい刺身とカルパッチョがたべられました。

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美味しすぎてヤミツキになりそうです。


平瀬のとなりの神楽島にも息子はトライしました。
親として帰港するまで心配ではあるのですが、、、、、
海中で魚が泳ぐ姿が頭に浮かび、ソワソワする気持ちが手に取るようにわかります。
釣りの魔法にかかった者はいたしかたありませんね。



Kodak playsportで撮った映像です。  やったぜ!!ってかんじですね。

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沖合から「いそかぜ」船が帰ってくるのが見えるとホッとして釣果に期待が移っていきます。
さてさて、何が釣れたやら?

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カンパチの子どものネリゴ2本と大きなオオモンハタでした。
他の人達はかんばしくなくその中では一番の釣果でした。

ヨカッタ、ヨカッタ。


父のスクラップ帳から西日本新聞の昭和28年1月28日の記事の見つかりました。

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記事の中の出島の復元計画見取り図を見ているとk病院とは海江田病院
県立病院は出島病院、隣が内外クラブ、朝永病院でした。
海江田病院の向かいは銭上倉庫があったと記憶しています。

旧長崎内外クラブにはオランダ商館内から移って数年間暮らしたこともあります。
クラブに入ると石の通路があって、1階をキッチンに使っていました。

2階の居間も西洋風なので天井が高く、気持は良かったのですが、、、、
自分たちで壁や天井に白いペンキを塗るのが大変でした。
だって面積が広くて、広くて。  でもあれ以来ペンキ塗りは好きです。

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それに、今からすると当たり前のことでしょうが、、、、
内外クラブの部屋の間仕切りが重い大きな丸のノブのついたドアだったのです。
建物自体は古かったのですが昭和30年〜40年代当時には居間がドアで区切られるのは
ハイカラだったんですね。

私たち家族は西洋の個室の先がげをいく建築物に暮らしてみて、その生活空間が
なじんだのでしょう。
後年、父は西山と千々に家を建てた時、普通の家よりも天井を高くし、ドアも特別に
つくったわけが解ったような気がします。

今考えると懐かしいくも、貴重な空間に暮らした思います。

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