わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)


1945年8月9日は、ソ連が旧満州に侵攻した日です。

その日、家族と離ればなれになってしまった少年。日本人の父とロシア人の母を持ちコサック少年として育った波瀾万丈がはじまります。

北満州ハイラル→綿州まで1000キロを独りで歩き続けた10歳の少年。

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コサックの生き残り、ビクトル少年の知恵を教えてもらいます。

虫について。
<いちばん効果があるのは、馬糞を利用する方法だ。ズタ袋の中には折りたたみの布製バケツが入っていたから、それに水を汲んで拾った馬糞を落とし込む。しばらくして水が黄色っぽくなったら、その上澄みを首筋に塗りたくるんだ。帽子の内側にも塗ってそいつをかぶると、さすがに虫たちも全然寄ってこないんだよ。だから虫で苦労したことはほとんどなかったね。>(219P)
食べ物について。
コサックの子どもたちは、小さいころから機会あるごとに草の知識を与えられる。・・よくわからないものがあったときは、茎を折って、出てくる汁で見分けをつけた。みずみずしくて水分が豊かなら、食べても多分大丈夫。すぐしおれるものは、あぶない。匂いも嗅いで判断した。・・・でも、いちばんビクトルを支えた食べ物はクルミだった。(237P)
水について。
大人の身長より高い木が生えているところを流れているのはいい水だ。岸辺に木が生えて流れはゆるやか、川を覆う木の影に魚の姿がいっぱい見えるところならそれはもう素晴らしい。ブルーベリーも大事なことを伝えてくれたよ。上流から下ってくるブルーベリーが草むらに流れつく直前の水はとてもいいんだ。(233P)
コサックの人間について。
コサックは、追いつめられても途方に暮れない。満州時代、川の氾濫のため、家も開墾した農地も流されてしまったコサック村があった。すべてを失った村の人々は声をあげて嘆き悲しんだ。そのうち一人の男がかろうじて手元に残ったバラライカを弾き始めた。一人二人の歌声がやがて全員の合唱となって響き渡り、全壊した村を前に踊りの輪ができあがった。そばでそれを見ていた特務機関員は「日本人にはありえないこと」と半ば呆れ、半ば戦慄を覚えたという。 彼らの不敵さと不屈さは、ビクトルのなかにも生きていた。(253P)


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どんな苦境にあっても、顔をあげ、太陽に感謝し、歌をうたい歩き続けた。驚くべき不屈な姿です。

自然とともにあるコサック人の魂がビクトル少年に宿っていたと思います。

想像するのも悲惨で残忍な事実もありましたが勇気がわく本でした。




ビクトル少年は、日本に統治されていた満州国のソ連国境に近いハイラルという軍都で1935年に生まれました。

父親は日本人の毛皮商人、母親はロシア人のコサック娘の長男として。

満州に亡命したコサック人の祖父から日本人として唯一、コサックの伝統を受け継ぐ少年は、ハイラル育って10歳で敗戦をむかえます。

後年、大人になってからはサンボ(格闘技)で世界的に有名になりました。

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でも、ロシア国技サンボの覇者として認められることより、独りで満州国から引き揚げた少年時代が人生のハイライトだったと語っています。

それは、母や祖父からコサックの伝統、生き抜くサバイバルのし方を授かって、あきらめず満州の大地を踏破したからでしょう。

少年は、ナイフを持ち、馬に乗り、木の実をとり、川を渡り、自由闊達でした。

悲惨な場面にいくども遭っても、慎重にサバイバル力を活かし乗り越えてゆく。暗くない話、逆に明るい話なのです。

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コサック少年が極限におちいった日本人について言ったことばです。

日本人ってとても弱い民族ですよ。打たれ弱い、自由に弱い、独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげく気落ちしてパニックになる。(272ページ)

私のことを言われたようで、頭をガンと殴られた気がします。

日本人の本質をついていることば。かみしめなくては!!

後編に続きます。




最近、一番おもしろかった本です。

1935年生まれ77歳のビクトル古賀さん、当時10歳の時のお話です。

終戦直後の満州動乱の中、ビクトル少年は北満州ハイラル→綿州まで1000キロを独り完歩したそうです。

太陽をあおぎ、食糧、水、マッチも持たずズタ袋にナイフ1本で。

その驚愕の体験記が基になった本です。すざましい生きざまに感動でした。

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1000Kmとは、車で長崎ー東京間(高速で約1200Km)子どもがとうてい歩ける距離ではありません。

コサック最後の少年は、自然への洞察力、人間の極限を観る、生命力がハンパではありませんでした。

このビクトル少年の語るコサック人の知恵を学びたいとおもいます。

次回から紹介してみます。