うた
イキナガ ショウモン ショウクラベ コウサン ノ セイ!佐世保独楽のヒモをかたく巻きます。 独楽の剣を上に向けたまま・逆持ちします。
ボウリングをするように腕をふり、独楽を前方へふり出します。
きろく
お正月の遊びとして、佐世保独楽(こま)のご紹介です。佐世保市立図書館の森山高昭館長に教えてもらった独楽の店は 繁華街の四ヶ町にほど近い所にありました。
店は、通りから急勾配の坂の上にあり、店の上には鉄道が走っていました。
さまざまな型の独楽が並ぶ店内は、まるでレトロのにぎやかなおもちゃ箱のような空間です。 ガタンガタンと列車が、天井の上を走るその時、独楽は震え、戸は揺れました。
独楽を手に取ってみると丁度、らっきょう型。驚いた事に、持ち方が、剣を上に向けて、 普通とは逆なのが特長らしい。
なるほど、翌日、図書館の館長室で森山館長は、背広姿で独楽にひもを
クルクルと素早く巻き逆つかみで、掛け声ととも独楽を振り出された。
しばらくすると独楽は、一点に止まって高速回転を始めました。
「こいば、澄むというばい。」と館長は幼い頃の少年に戻られたよう。
独楽の回転が緩くなると、すぐひもで独楽をたたかれた。
この光景は中国を旅した時、山東省の煙台の公園で見かけたのと同じでした。 公園で朝早く仕事前の大人が大勢、太極拳やジョギングをしていました。 そんな中、派手な音がピシャリ、ピシャリ。
気を取られ近づいて見ると、子どもは一人もいません。
大人の男女が円筒形の独楽を棒つきのむちでたたきながら遊んでいる音でした。 中国では独楽は、大人の遊びなのでしょうか。
昔、佐世保独楽は、唐船によって長崎に渡来してきたものらしく ケンカごまの異名もあるとのことです。
独楽の歌というよりは、気合いの入った、掛け声のわらべうたという感じがしました。
(長崎新聞 掲載)(2004年11月16日 佐世保図書館にて取材)
うた
ひい、ふう、三四の うぐいすが 梅の小枝に巣をかけて十二の卵をうみそろえ うみそろえてたつときは
一つふわどり 二つふわどり 三つみわどり 四つよわどり 五つ医者さん
六ちゃむこどん 七つなんぎのおもちゃんが コレラの病気をわずらって 石炭酸をふりかけられて
うちのおっかさんな血のなみだ 血じゃなかった紅(べん)じゃった
太郎さん 次郎さん タバコ一きんかいなされ タバコかおよりゃ寺まいり
寺はどこかと本願寺 本願寺のうしろはよいところ そのよいところにこができた
そのこが六つになったなら 金のきんちゃく さげさせて むこから学校の生徒が五人づれ
一でよいのが糸屋の娘 二でよいのが人形屋の娘 三でよいのが酒屋の娘 四でよいのが塩屋の娘
五でよいのが呉服屋の娘 呉服かたげて ヤサッサ ヤサッサ ハヤハヤ イッコ
手まりを足をかけながらではなく、つくだけの時のうたです。
まりをつくのは、四、五歳では難しいあそびです。
幼い子は、手始めに、なるだけ長い間つける様にがんばる。
それが上手くできたら、足掛け、股掛け、スカート拾い、背中のせ
などの上の技の段階がありました。
きろく
長崎の島原半島の西有馬の安達フイマさんから聞いた手まりうたです。単純につきながらうたったそうです。
複雑なつき方が難しい四、五歳のころはひたすら長くつくよう熱中したものです。
そして、足掛け、また掛け、スカート拾い、背中乗せなどの難しい技に
挑戦していくのです。
最近、まりつき遊びが少なくなったのは、あそびの時にうたうことを
無くしてしまったからでしょうか。 何かさみしい気がします。
歌の中でコレラの病気に触れているのは驚きです。
昔はコロリと言われ、江戸時代の「安政コレラ」では数万人が死亡したそうです。
明治時代にも西日本一帯で流行し、人々を震え上がらせたといいます。
そんなうたでも、とんちゃくなくうたうのが、まさに子どもの文化ですね。
このコレラの文言の入った類歌が、同じ長崎県ですが、遠く離れた離島の
新上五島町に残っています。
どのようにして、わらべうたという文化の交流が行われていたのでしょうか。
西有馬は、「手延べそうめん」の産地で知られています。
昔、ここから「そうめん船」と呼ばれた商い船が天草や五島、壱岐
対馬まで風に乗って行き来していたそうです。
その帆船は、そうめんや米、みそ、しょうゆ、酒などを積み込み
各地の庶民の生活を支えていたようです。
うたもまた、船に乗り広がったのでしょうね。
小さい船が離島に伝えた素朴な手まりうたでした。
(西日本新聞 掲載)(2004年9月19日 西有馬にて取材)
うた
1. ともさん ともさん はなつみゆこうや おててつないで かごさげて
2. つんだはなばな こたばになして みははマリアに ささげましょう
3. はなはわれらの おてほんさまよ ひとのこころの いましめよ
4. ゆりはけっぱく ぼたんはあいで はでなさくらは しんとくよ
5. にくしうらめし やまおろしかぜ さけるさくらを ふきちらす
6. さけるはなさん いくらもあれど みのるはなさん いくらです
7. ともよわれらも このよのはなよ とくのみのりに うまれきた
8. いかにあらしの ふきすさぶとも こころひきしめきをつよめ
9. かみのみそのに たのしむまでは しゃばのあらしに ちるまいぞ
あそび
子どもを、ひざの上に抱っこして手を取り、振りながらあそぶ。
きろく
長崎市から車で45分ほど、広々とした五島灘を左手に見ながら西彼杵半島を ゆっくりと北上して長崎県外海町出津・黒崎地区へ。
遠藤周作 の「沈黙」の舞台となった黒崎教会を過ぎると、遺跡や歴史的建築物が集まり出津文化村 と呼ばれる一帯です。
文化村には、明治時代にこの地に功績を残したフランス人宣教師のド・ロ神父の 記念館があります。この記念館のシスターから教わったのがこのうたです。
ほほえみが印象的なシスターは、 ミサ用のオルガンの椅子に座り昔を思い出す ようにゆっくりとうたってくれました。
「この辺りでは、母親たちはみな、子どもをひざに抱っこして手を振りながら キリシタンの教えをわらべうたに託してあそんでくれたの。」とシスター は語ります。
外海町にも、禁教時代に過酷な迫害の中で、生きてきたキリシタンたちがいました。 入り組んだ地形が、キリシタンの里を守ったのでしょうか。
その貧しく質素な町にやってきたド・ロ神父は、産業や教育の発展に寄与しました。 住民たちは、今もキリシタンの教えを守り続けているのです。
子ども達はこうしたわらべうたをうたいながら、その分かち合いの精神を身に つけたのでしょう。
「旬もおいしい物が手に入ると、まず教会に持って行き、そしておとなりへ 最後に残った物を自分の家で食べたものです」と地元の人が話してくれました。
地域の助け合い精神は、今の時代にもうたい継がれているのですね。
(西日本新聞2004年12月12日掲載)
(2004年10月16日 ド・ロ神父記念館にて取材)