いつものように、長崎手帖を音読しながらの集いでした。
手帖の茶のみ話から「定員超過」。昔の日見峠越えのお話です。
定員超過 まだ日見トンネルが開通しない頃、あの峠を自動車で越えるのは、運転手もお客もずいぶんハラハラしたものです。何しろ八人定員のフォードの改造車にお客は鈴鳴りで中には柱につかまってステップに立っている人もあって、あの狭い曲がり曲った道を行くのですからね。エンヂンがかからないと戦時中の木炭車のようにお客に後押しをさせたり、下りになってブレーキがきかなくなったと思った時は、事故の未然防止で、わざと自動車を溝に突っこんだと言うエピソードもあったようです。(丸寿タクシー 原一郎氏)
日見新道・切通し(明治15年)は、峠越えがきついので山を切り崩して新道(有料)をつくったのです。
今は、長崎芒塚IC(インターチェンジ平成16年開通)できて、切通しや日見トンネル(大正15年開通)も昔の交通手段になりました。
でも、わらべうたの親子にとっては、饅頭ツアーで毎年通ったので日見峠の関所、切通しはお馴染みです。
10年間、毎年春に子どもたちと長崎街道を通ったことがいい思い出です。
第二十三回は、長崎手帖No.10の周庵先生を憶う〜茶のみ話〜長崎の夜(写真)〜碑をたづねて5 休石まで。
宮田さんがお休みでしたので、「三菱の徽章・きしょう(バッヂ)の変遷」は次回に。
次回は、5月24日(土)の予定です。どなたでも参加できます。気軽にいらっしゃいませんか?