当時(1958年〜1970年)の私は新興善小学校に通い始め、子ども目線からの出島は三角溝やぶどうが実った庭を勝手に家の庭と思っていました。
鉄の大鉄砲、あじさいの花、石造日時計、大きい松の木などなど。
今のように整備されていない戦後まもない出島阿蘭商館跡地は、周囲を埋め立てられていて他の倉庫群の中にあり外見では扇形も解らない処でした。
そこで、長崎市の文化財にいた父は埋め立て前の江戸時代の出島阿蘭商館の姿を復興する為に扇型の外枠に鋲をうちました。
また、一角にある石碑「史跡 出島阿蘭商館」を立てる時、父は叔父に頼み文字を書いてもらったそうです。