わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)

今朝、みかんをほおばっていたら、、、ふと、みかんのあぶりだしをしてみたいなぁって。
子どものころに火鉢を囲んでよく遊んでいたのですが。

実は、先日の”お正月会”にやってみようかな?とチラリ思ったのですが、フム〜、火を使う
から危ないかも、、、、、。

R0034922

でも、せっかく思い出したのだから、やってみよっ!と。
あぶり紙は、子どもが学校の習字道具が要らなくなってから久しいのですが半紙を探します。

ありました。半紙は棚の奥にあったのをやおら出してきました。
それはそうと、書いたらすぐにあぶったっけ??      アラッ、忘れちゃった!
シマッタ、子どもともあぶりだしで遊んだ記憶はないんだなぁ。

R0034932

そこで、ガスを弱火にして、一枚目はしばらくして、、、二枚目は直ぐにあぶっていきます。

なかなか難しくて、一枚目はあぶりが弱い。二枚目はアラララ、、焦がしてしまいましたよ。

ヨオ〜ッシ!!三枚目は気合を入れてみかん汁たっぷりと筆に染み込ませ、太く書きました。

R0034941

ガス台の上で半紙を右左、、、裏表にと、、、、アッチチチと根気よくあぶること10分です。
用心!用心!です。  指先はポッポッとなりながらできましたよ。
立派なあぶり出しです。

R0034940

あぶりだしをしていると、みかん汁の甘ニガイ焦げのニオイが漂います。
三枚目にして、ジワジワと焦げが字を浮き彫りにして、、、なんとも面白かったんですよ。

寒い夜は、ストーブの前でアッチチチと言いながら親子で遊んだら楽しそうですね。


昭和30年前後の長崎出島オランダ商館跡地の住人を探す一歩です。

先日の松本さんのアドバイスでゼンリンの地図を手がかりに、長崎県立図書館の郷土資料室に 行ってきました。

R0034885

私はゼンリンの地図は昔からあるものと思っていたらイヤイヤ、そんなものは無かった時代だった。

昭和36年(1961年)に株式会社ゼンリンは善隣として設立されています。

それ以前の長崎地図と言えば、、、。 ありました!! 昭和29年:長崎市街地図です。

R0034892

昭和29年といえば私は3歳です。 郷土資料室で、その昭和29年:長崎市街地図をめくると、、、次のお三方の言葉に原爆投下の長崎を是日にでも復興させようという熱い気持ちが。

原爆投下から9年、遮二無二、、長崎市民は働いたでしょう。涙がジンワリです。

その地図の1ページ目に、当時の長崎市長 田川務氏の推薦の辞が。昭和29年9月10日

R0034893

長崎国際文化協会 常任理事 木野普見雄氏 推薦のことば
R0034912

長崎地方法務局長 原田之人氏 推薦の辞
R0034913

思いがけずドアを開けたら、、、長崎の先人たちの生きてきた言葉にグサリと胸をつかれた気がしますよ。
この市街地図を編纂するのにどれくらいの人が関わったでしょう!! その方々の努力を思うと頭がさがります。

父の残した昭和29年5月14日の新聞のスクラップです。
EPSON002

父の履歴書を見てみますと昭和28年12月から出島阿蘭陀商館跡地の工事に携わっています。
丁度、長崎市街地図編纂のころは出島の工事は中断していた時もあり大変だったようです。

その当時は、右を見ても左を見てもバラック小屋みたいな家が立ち並んでいました。 今のように便利な世間ではなく出島も”工事現場と新世界”に書いたような時代でした。

その地図の中には復旧前の、浦上天主堂、眼鏡橋、原爆公園などの写真もありました。 市街地図は善隣とは又ちがって昭和30年の長崎の味がにじみ出ていましたよ。



私は、長崎の出島オランダ商館の跡地内に小学校から高校まで暮らしていたんです。
みんなウソって!!思うでしょうね。 
そのことは 前回 もいいましたが、、、ここが、私のルーツと思っています。

R0030894

平成23年の出島→昭和の30年前後の出島へ、、、、、出島さがしがまた一歩ですよ。
その先がまた解って、、、、、大正→明治?と逆行できたら面白いですね。
明治以降、誰がどのようにして出島に住んだんでしょう?
住んでいたからの素朴な問い掛けです。

R0030916

今回は、昭和30年前後にお隣りだった漬物屋さんの松本さんに会いにいきました。
すでに当時、住んでいらしたおばあさんは亡くなられていて松本さんのお孫さんに
当たる方でした。
気さくな方でいろいろ教えて頂きましたよ。

現在、長崎市馬町にある長崎市民活動センターの「ランタナ」の所長さんをされています。

R0034708

今も、松本さんのご実家は銅座町の漬物問屋さんです。
そのころ中学生の松本さんは「 ”オランダ屋敷”と呼んでいたんですよ」と。
そうです!そう呼んでいました。

当時、おばあさんは犬と一緒に漬物倉庫に暮らしていたそうで、ご自分は住んだ事はないと。
今はご両親も亡くなられて弟さんが家業を継がれてているそうです。
お母さんが生きていらしたら昭和の出島のことがわったかもしれませんが、、、、、。

我が家は当時、松本さんのおばあさんから一部屋借りていたんです。
やっぱりでした。隣さんの大きな倉庫引戸をヨイショと開けると薄暗くてガランとしていた
思い出と同じでした。

R0034702

松本さんの隣は吉田塗料店、前は朝長病院、海江田病院、銭上倉庫などなど、、、
酒屋さんもあったのだけど名前が??
すると「県立図書館の昔のゼンリンの地図を手がかりにすれば?」とのgoodなアドバイス。

その当時のことやあれこれ話しているうちに、私の中で五里霧中だった長崎出島さがし
の手がかりがまた一歩、進めたように思えましたよ。


10月19日に長崎オランダ商館跡地のことについて出島復元整備室に行ってきました。

元々、この出島の中で育った私は出島時代が忘れられません。
その時代、昭和30年頃から約55年を過ぎてどのように変わっていったのかを知りたかったのです。

学芸員の山口さんや室長の馬見塚さんは丁寧に資料などをだして下さり昔の出島内に住んで
いらした方々の事も教えてくださいりました。

出島航空写真平成18年8月22日撮影

ああ、やっぱり出島に住んでいたときのお隣は漬物屋さんだったんです。
松本漬物屋さんのお宅の川に面した一室もお借りしていた記憶がよみがえりました。

重い倉庫の扉を開けると、かなり広いガランとした薄暗い土間がひろがり漬物の香りが
ぷ〜んとしていたんでした。
その土間を横切って川に面した部屋に入るのですが、通る時は明かりをつけずに
ソロソロとした足どりだったんです。

ひんやりと薄暗いのは漬物屋さんの倉庫だったからですね。 今になって納得しました。


出島史跡整備計画図


扇形の出島内にあったお酒屋さん、質屋さん、倉庫、商社、塗装店、病院、長崎新聞社などは
2001年(平成13年)に全て完全公有化になって出島内から出て行ったそうです。
それは、前年の2000年の日蘭交流400年事業をめざしての取り組みだったそうです。

室長の馬見塚さんに、松本漬物屋さんをご紹介してもらったので出島の原風景を
探っていけるかもしれません。 私にとってはワクワクする旅です。


父から14年前に「長崎の洋風建築」という父の書いた本をもらいました。
本をもらって4年後の2000年9月21日に86歳で父は亡くなりました。
3人の子どもヘ一冊づつ形見のつもりであげたのでしょうが、私は中身も読まずに
長いこと本棚にしまっていました。

R0032049

父が亡くなって4ヵ月後はじめてその本を手に取りました。
身内で月命日の法要後、父がした仕事を巡ろうということになったのです。
光源寺→興福寺→眼鏡橋→崇福寺→リンガー邸→グラバー邸→出島オランダ商館跡を
訪ねてみました。
母、子ども、孫たちで訪ねることができて良い思い出になりました。

昔のことを振り返ると懐かしさがこみ上げてきます。
当時の写真などを整理していたら出島の工事現場でしょうか、大工さんや石屋さんなど
懐かしい顔が思い出されます。
石屋さんの坂本さんは、やさしい人で大きな黒い目のまゆがくっきりした物静かな人でした。



前列の右端が父、坂本さんは右端から4番目の方です。
私は現場に遊びに行っては皆さんにかわいがってもらったことでしょう。
今となっては名前は覚えていなくてもみなさんの顔はシッカリ記憶に残っていて
前回の「道」の映画のシーンを思いだすようなデジャヴな感じがします。

2000年からまたこの本は10年間眠っていました。
その間、息子は通っていた長崎県立北高の図書館の方からこの本が貴重な本だと
教えてもらったことがあったそうです。
意外なところで評価されて息子と共にびっくりしました。

父は、1967年(昭和42年)に本を書いてから後年、東大に論文を出し博士号を取り
それからは学術の分野へ方向転換しました。
その後、息子が日本建築学会大会学術講演梗概集の父の論文が面白いと勧めたのが
きっかけでこの本は10年ぶりに起きてくることになります。

私は建築などは門外漢なのですが、父は明治維新前後の激動の歴史とリンクしている
長崎の建築は面白いと思ったにちがいないと思います。
だって何年も毎晩、倉庫の人になっていたんですもの。

好奇心旺盛なのは父譲りでしょう、私の目線でこの本を紹介していこうと思います。


昭和30年1月に祖母と父が並んで写っているの写真です。
出島オランダ商館跡復元工事の監督をしていたその現場です。
たぶん、お正月ではないでしょうか。

オランダ商館復元工事S30年1月・041

その頃、私は3歳10ヶ月、母とよく出島の復元工事現場に行っていたようです。
その出島に近い湊公園の裏に「新世界」という映画館がありました。
両親は映画が大変好きだったので私を連れてよく行っていました。

昭和30年代に長崎市内にはたくさんの映画館があったのですが、「新世界」は
特別に大きかったと思います。
映画のストーリはわからなくても心に残るシーンは今でも覚えています。

イタリア映画のヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」のうら悲しい感じ。
昭和32年に日本で上映されたフェデリコ・フェリーニの「道」も観ました。
ジェルソミーナの表情、海のぎらぎら光るシーン、きれいなメロディーなど。

オランダ商館跡S30年5月im049

父たちは新世界で観終わった映画話に花が咲き、湊公園から銭座町まで自転車を
ひいてトボトボと歩いて帰っていたそうです。
その自転車の荷台に乗っていた私はよく落っこちたらしく昭和30年ごろの
ほのぼのとした笑い話です。


父のスクラップ帳から西日本新聞の昭和28年1月28日の記事の見つかりました。

0qw2hO

記事の中の出島の復元計画見取り図を見ているとk病院とは海江田病院
県立病院は出島病院、隣が内外クラブ、朝永病院でした。
海江田病院の向かいは銭上倉庫があったと記憶しています。

旧長崎内外クラブにはオランダ商館内から移って数年間暮らしたこともあります。
クラブに入ると石の通路があって、1階をキッチンに使っていました。

2階の居間も西洋風なので天井が高く、気持は良かったのですが、、、、
自分たちで壁や天井に白いペンキを塗るのが大変でした。
だって面積が広くて、広くて。  でもあれ以来ペンキ塗りは好きです。

R0030867

それに、今からすると当たり前のことでしょうが、、、、
内外クラブの部屋の間仕切りが重い大きな丸のノブのついたドアだったのです。
建物自体は古かったのですが昭和30年〜40年代当時には居間がドアで区切られるのは
ハイカラだったんですね。

私たち家族は西洋の個室の先がげをいく建築物に暮らしてみて、その生活空間が
なじんだのでしょう。
後年、父は西山と千々に家を建てた時、普通の家よりも天井を高くし、ドアも特別に
つくったわけが解ったような気がします。

今考えると懐かしいくも、貴重な空間に暮らした思います。


通学路の昨今 2

昭和33年ごろの通学路で江戸町は川添ガラス店の先に質屋さんがあり、左折すると
ピンコロ坂が県庁まで続き、向かいは卸のお菓子やさんがあったのを覚えています。

R0031343

ピンコロ坂も当時の小学1年生にはヤットコ登って県庁だと感じていました。

R0031371

ヤットコ県庁に出てからは、新興善小学校まで一直線でした。
しかし、この一直線もまだまだ、学校に着かん!と思ってた記憶が蘇ります。
毎日通学していた新興善学校は2008年に長崎市立図書館になりました。

R0031309

昔の通学路をふりかえると、今は車社会になってスピードも目まぐるしく
変わってしまったんですね。


通学路の昨今  1 

昭和33年、私が出島から毎日通った新興善小学校への通学路です。
出島橋を渡りおわると少し下り坂です。

現在も丁度、小学1年生が橋を渡っていましたがこの子の目線でも
出島橋はデカイでしょうか。

R0031382

右手は登本酢店でした。今は、ガゾリンスタンドになっています。
左手は100円パーキングになってしまった川添ガラス店です。
後ろの木に隠れているのは県庁です。

R0031338

昔、川添ガラス店の前でピンクのシャツを着ていた社長さんをある日
失礼にも笑ったんでした、、、、すると、こっぴどく怒られたのを覚えています。
当時、男の人がピンクの服を着ているのはめずらしい時代でした。


出島橋

毎日、新興善小学校(現:長崎市立図書館)に通学する時に通っていた鉄橋です。
出島橋は現役として使用されている鉄橋の中で日本最古だそうで なんと、
2010年で橋歴120年になるそうです。
1890年(明治23)に造られましたとちゃんぽんコラムに書いてあります。

php3xXAuw

その当時は子どもの目線でしたからすごくデカイ橋でした。
長さもかなりあって雨風の強い日は海から吹く風に飛ばされぬようにと
しっかり傘をさして中島川を見ながら通ったものです。
橋を渡ると川添ガラス店、その先は江戸町のピンコロ石坂上り。
いつも、子どもって地上1メートル目線で見ているんですね。
今にしてやっと橋の上にあるコウモリ型の銘板に気が付きました。
18銀行本店がまだ建っていないころです。

phpUDooTj


昭和30年当時の新聞が父のスクラップブックから出てきました。

「オランダ屋敷を復元」
160年ぶりに復元に ”出島の資料”を陳列公開

(昭和30年2月19日・西日本新聞)

php7kh8GO

この新聞の写真の中の人物は、当時施工監督をしていた父の姿でしょう。
思わぬところで眠っていた戦後の出島の息遣いが伝わります。

父の生前にもっと詳しく聞いておけば良かったと悔やまれます。
後年、隠居していた千々の家に資料や手帳を取りに行ってきました。
最後に海が近くに見えるところとして建てた家です。
また、少しずつおもしろいことが解ってくるかもしれません。

phpeNyRVv


今の考古館は全面石造り。でも、昭和36年ごろは正面は木造で側面が鉄の窓が付いている石倉で大きな建物でした。 当時の商館跡の大門の前に立つ私と妹です。

「そうこ」の内部は当時ガランとして一階にはおくんちの山車。他に、出島に保管されている物がゴロンゴロンと置いてありました。 そこは、子どもの目には暗くばかデカい未知の空間でした。

img003

私は「そうこ」が父の居る場所とわかっていたので恐ろしくなかったのです。でも、弟は悪いことをするとオシオキに「そうこ」に入れられるか、出島の中で一番大きい松の樹にくくられていました。
かわいそうな「そうこ」に入れられた弟を救い出すのはいつも妹。

昭和37年の冬は、軒下にはツララが20センチも下がり、雪もたくさん降りました。出島の庭に積もった雪で大きな雪だるまを作って遊んだのです。このころは寒かった!!

img006

手や足にはシモヤケができ、練炭の炬燵に入るとカユくてたまらない時代でした。




私の昔の写真です。昭和30年5月と裏に記してあるので3歳10ヶ月。

場所は、戦後まだまだ日が浅く復元工事の途中の出島阿蘭商館のです。

大きく切り出した石群の上にスクッと立っている私の写真です。 後ろに鉄橋と英彦山が写っています。

img001

父、山口光臣は長崎の出島阿蘭商館はもとより大浦天主堂、興福寺、崇福寺(赤寺)などの 国宝を修復する仕事をしていました。

チャンポンで有名な「みろくや」さんのホームページを書かれている越中哲也先生の第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理に出ています。

« 前ページへ