昭和30年頃、幼い私たち妹弟は長崎出島19番地に住んでいました。
直ぐ近くの長崎出島5番地は、耳鼻科の 海江田病院 だったのです。
先日、その病院の奥様だった海江田百合子さんに会いにいきました。
今は出島史跡整備のため出島をでられましたが、その頃の様子を懐かしくお話
して下さいました。

百合子さんが海江田家に嫁がれたのが昭和28年だったそうです。
やはり、海江田さんのルーツは薩摩の伊集院。士族の海江田信義のご一族でした。
先々代、海江田純氏は大正11年に長崎大学医学部(元長崎医専)を卒業されて
昭和6年に長崎出島5番地で開業されたそうです。
出島5番地は、幕末から明治にかけて長崎に住んでいたフランス人貿易商ピニャテル家の
自宅と会社があったそうです。
そのピニャテルの洋館を引き継がれたのが海江田氏とわかったのでした!!

ヴィクトール・ピニャテルは大正11年に亡くなり坂本町の長崎国際墓地に。
トーマス・B・グラバーと一緒の坂本町の地に眠っています。
海江田百合子さんには、出島のご近所の方々に加え、千馬町、おくんち、薩摩などのお話が
たくさん、たくさん、、、懐かしくて。お世話になりました。
やっと、出島5番地の転遷が幕末まで遡れてうれしいです!!
節分祭の帰りに、初めて立ち飲み処”森山酒店”に入ってみました。
カウンターに所狭しとおつまみがいっぱい。壁には、日本酒の一升瓶がずらり。
7,8人用のカウンターにテーブル3つの丁度いい日本式パブみたいでした。

奥のテーブルに案内されて、、さてさて何を飲もうか!と。娘と私はビールと赤ワインを注文。
娘がソッと「隣のテーブルに田上市長さんがいるよ」って「えっ!!全然気づかんかった」
だって、色も同じような黒っぽい服の数人。皆さんサラリーマン風な雰囲気だったんですよ。
失礼しました。目に入らなかったんですよ。

まぁ、、、記念にということで広報?の方にTHREEショットを撮っていただきました。
焼きあご、おでんの大根で楽しく飲んで来ました。美味しいし、安いし、goodです。
でも、また娘に「お母さん、良く周り見らんけんかさ!!」と注意されましたよ。
私は、眼下の事に夢中になるといろんなコトを見落とすんです。
今回は飲むことに気持を入れすぎて、、、、イケナイ、イケナイ。
長崎の諏訪神社と松の森神社の節分祭にいってきました。
丁度、19:30の鯱太鼓の始まり間に合ってヨカッタです。セーフでした。
鯱太鼓の面々のカッコイイ演奏!! 太鼓っていつ見て聴いても元気をもらいますね。
鯱太鼓の後に娘と合流して神社の甘酒を飲んだんだけど、、、、、それがなんと甘い甘い!!
二人で一杯でもやっとだったんですよ。もう、、、飲めない、タクアンが食べたいと。
それから、お参りして福豆を買って次は松の森神社に。

松の森神社では、いつも上がってご接待に預かっています。ありがとうございます。
娘は、偶然にお茶の先生がいらっしゃってて、皆様とも久しぶりに和やかに話ができて
嬉しかったようです。
ここは、毎年ぜんざいが振舞われるのですが、、、、甘酒の直後ですので遠慮しましたよ。
しかしながら、、、、越乃寒梅を振舞われて美味しかった。

松の森神社の豆まきでは、福豆を投げてもらって運良く手に取ることができてラッキー。
寒さにもまけず、境内には紅梅が花開いていましたよ。
カプリスの焼き菓子をお土産に。と買いに行ってきました。
場所は活水大学の下、長崎オランダ坂のすぐ近くにあります。
小さなお店には、カエルの置き物が所狭しとあってほのぼのとした空間です。

席はカウンター4席と窓際に4席ほどこじんまり。
窓は大きなガラスがあって外をみながらキッシュやケーキ、パンが食べられます。

キッシュは本場、フランス人のナタリーさんもお気に入りの一品ですよ。
焼き菓子、パン、キッシュ、、、みんな美味しくて東京の数あるお店を出し抜いてますよ。
東京の友だちにも好評なのでお土産に持って行きます。

ムムム、お店の棚にザボンを発見。
季節の果物のパイもgoodなのでパイかな?と聞けば、、、バレンタインチョコに計画中とか。
オレンジピール(皮を乾燥させたもの)じゃなくて、ザボンピールかぁ〜。
美味しそう!! うふふ、、たのんできましたよ。

カフェ・カプリス
〒850-0911
長崎県長崎市東山手町1−4 第2オーチ東山手 1F
Tel : 095-827-3440 定休日:火曜日
美しい長崎刺繍の着物に出会いました。
この着物のことで、長崎歴史文化協会の越中哲也先生を訪ねられて。
着物を広げていらっしゃ方が中野英子さん。対馬の知人から預かっているそうです。

グレーの地に白鶴が羽ばたき、竹は金糸、笹は朱糸と薄藍糸、梅は鉛丹色、松は濃淡染めで
裾には長崎刺繍で金糸の獅子がモリモリと勇ましく刺繍されています。
昔ならではの立派な衣装。現在ではこんな凝った着物はできません。

越中先生のお話では。
「昔、男ん子が元服の時、皆さんにお披露目すっ時に着る着物ですたい。成人は男ん子18歳
女ん子は14歳にしよった。」とのことです。

裾には綿が入っていて、着るというよりは羽織るのでしょうか?
この着物の出処は対馬だそうで、、、、こんな手の込んだ着物を揃えられる家は裕福な
対馬の名家なんでしょうね。
大事にとって置いて頂きたい美術品ですね。
先日お会いした出島商館跡地のお隣さん、松本さんからありがたい情報が。
長崎出島にあった海江田病院の奥様がご健在だそうです。
当時、海江田病院にはとてもスッキリと美しい奥様がいらしたのです。
昭和30年代、7歳の妹と3歳弟は出島の海江田病院の待合室によく通っていました。
イヤイヤ、病気じゃなくてTV目当てなんですよ。

病院の階段を2、3段登ると広い玄関が待合室。
数列ならんだ待合室の長椅子に、ふたりで仲良くチョコンと座ってはTVを見ていたものです。
私は、小さい首をのばして夢中でTVを見上げている妹弟を「夕ごはんだよ!」と呼びに。
越中哲也先生にもお尋ねしてみようと長崎歴史文化協会(歴文)にいってきました。
先生のお話では、奥様は日本ポルトガル協会の会員で歴文にもよくいらっしゃてたそうです。

海江田さんを辿っていけば薩摩藩士。海江田信義のご一族で長崎に明治以降に医学の勉強に。
そして、その後耳鼻科の病院を出島でされそうです。
昭和30年当時の築は建て替えだったそうですが、とてもハイカラな洋風建築でした。
幕末明治期に来日したフランス人貿易商、ピニャテル親子の住居が出島5番地に。
ハイカラだったのですから、もしかして海江田病院になったのかもですね。
もしも、ピニャテル邸が、、、、海江田病院に渡っていったとしたら?
海江田病院の奥様にお会いしたら謎が解けるかもしれません。
うた
ななくさ なずな とうどの とりが わたらぬ さきに
ななくさなずな from yamada yukari on Vimeo.
あそび左手をまな板にみたてて、右手で包丁つかいのように刻むしぐさをします。
おままごとあそびの中でします。
包丁で七草を切るようにしぐさをしながらうたいます。
きろく
毎年、1月7日に長崎の諏訪神社ではこのうたをうたいながら七草を刻んでいます。
朝から七草粥のふるまいが行われ一年の無病息災を祈ります。
2011年の七草粥に行きました。たくさんの人が諏訪神社にきていて並んでおいしい
七草粥を頂いてきました。
今回は、あかちゃんクラスに飛び入りでNちゃんが参加してくれました。
Nちゃんも2003年からわらべうたで育ったOGで、びっくりするほど大きくなりました。
こんなに大きくなって今春は、小学3年生、うれしいですね。
2006 年1月の七草なずな 1は、おままごとであそんでいます。
寒いですな、、、、長崎は、また白、白、白の雪景色。

サヨナラ、三角、又きて四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いは雪、雪はきれい、きれいは 海
海は青い、青いはエソ眼、エソ眼はひかる、ひかるはオヤジのはげ頭。(替え歌 1)

サヨナラ、三角、又きて四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ、ウサギは跳ねる
跳ねるはカエル、カエルは泳ぐ、泳ぐはエソ、エソは白い、白いはめっちゃ美味い。(替え歌 2)

お正月に釣ったエソは、ほんに、白身でおいしかったぁ。
エソよ!! ありがとう。
長崎のココウォーク1Fのパティスリー:Camille(カミーユ)にKちゃんと行ってきました。
ここは、長崎シュガーロード講座2で紹介した上柿元勝シェフが新たにパテシエをされて
いる洋菓子店です。

去年の10月の講座の時に頂いたお菓子が美味しくて、、、一度、モンブランを食べようと!

モンブランは、甘さをひかえめで素材にこだわっててまろやか上品な味でしたよ。
モンブランといえば、、、東京の吉祥寺にあるアテスウェイが忘れられません。
吉祥寺駅から10分以上歩かなきゃ行けない所なのに、抜群に美味。しかも美しいんです。
Kちゃんはクラシックショコラです。
一口もらったけど、、、美味い! こちらは濃厚なチョコレートたっぷりです。

あれっ!ショコラだけUFO?みたいに浮き上がって撮れてます。
白いお皿が、、、、、ゼンゼン形もなにも見えないゾ、、、またやった、白飛びだぁ!!
あぁ〜、写真をたくさん撮るのに一向に上達しないのは、、、いつも慌ててるからです。
イケナイ! 落ち着いて、、、本腰で写真の基本を学ばなきゃね。
ヒストグラムかぁ。
昭和30年前後の長崎出島オランダ商館跡地の住人を探す一歩です。
先日の松本さんのアドバイスでゼンリンの地図を手がかりに、長崎県立図書館の郷土資料室に 行ってきました。

私はゼンリンの地図は昔からあるものと思っていたらイヤイヤ、そんなものは無かった時代だった。
昭和36年(1961年)に株式会社ゼンリンは善隣として設立されています。
それ以前の長崎地図と言えば、、、。 ありました!! 昭和29年:長崎市街地図です。

昭和29年といえば私は3歳です。 郷土資料室で、その昭和29年:長崎市街地図をめくると、、、次のお三方の言葉に原爆投下の長崎を是日にでも復興させようという熱い気持ちが。
原爆投下から9年、遮二無二、、長崎市民は働いたでしょう。涙がジンワリです。
その地図の1ページ目に、当時の長崎市長 田川務氏の推薦の辞が。昭和29年9月10日

長崎国際文化協会 常任理事 木野普見雄氏 推薦のことば

長崎地方法務局長 原田之人氏 推薦の辞

思いがけずドアを開けたら、、、長崎の先人たちの生きてきた言葉にグサリと胸をつかれた気がしますよ。
この市街地図を編纂するのにどれくらいの人が関わったでしょう!! その方々の努力を思うと頭がさがります。
父の残した昭和29年5月14日の新聞のスクラップです。

父の履歴書を見てみますと昭和28年12月から出島阿蘭陀商館跡地の工事に携わっています。
丁度、長崎市街地図編纂のころは出島の工事は中断していた時もあり大変だったようです。
その当時は、右を見ても左を見てもバラック小屋みたいな家が立ち並んでいました。 今のように便利な世間ではなく出島も”工事現場と新世界”に書いたような時代でした。
その地図の中には復旧前の、浦上天主堂、眼鏡橋、原爆公園などの写真もありました。 市街地図は善隣とは又ちがって昭和30年の長崎の味がにじみ出ていましたよ。
私は、長崎の出島オランダ商館の跡地内に小学校から高校まで暮らしていたんです。
みんなウソって!!思うでしょうね。
そのことは 前回 もいいましたが、、、ここが、私のルーツと思っています。

平成23年の出島→昭和の30年前後の出島へ、、、、、出島さがしがまた一歩ですよ。
その先がまた解って、、、、、大正→明治?と逆行できたら面白いですね。
明治以降、誰がどのようにして出島に住んだんでしょう?
住んでいたからの素朴な問い掛けです。

今回は、昭和30年前後にお隣りだった漬物屋さんの松本さんに会いにいきました。
すでに当時、住んでいらしたおばあさんは亡くなられていて松本さんのお孫さんに
当たる方でした。
気さくな方でいろいろ教えて頂きましたよ。
現在、長崎市馬町にある長崎市民活動センターの「ランタナ」の所長さんをされています。

今も、松本さんのご実家は銅座町の漬物問屋さんです。
そのころ中学生の松本さんは「 ”オランダ屋敷”と呼んでいたんですよ」と。
そうです!そう呼んでいました。
当時、おばあさんは犬と一緒に漬物倉庫に暮らしていたそうで、ご自分は住んだ事はないと。
今はご両親も亡くなられて弟さんが家業を継がれてているそうです。
お母さんが生きていらしたら昭和の出島のことがわったかもしれませんが、、、、、。
我が家は当時、松本さんのおばあさんから一部屋借りていたんです。
やっぱりでした。隣さんの大きな倉庫引戸をヨイショと開けると薄暗くてガランとしていた
思い出と同じでした。

松本さんの隣は吉田塗料店、前は朝長病院、海江田病院、銭上倉庫などなど、、、
酒屋さんもあったのだけど名前が??
すると「県立図書館の昔のゼンリンの地図を手がかりにすれば?」とのgoodなアドバイス。
その当時のことやあれこれ話しているうちに、私の中で五里霧中だった長崎出島さがし
の手がかりがまた一歩、進めたように思えましたよ。
長崎サンセットマリーの海側に出てみるとヨットやクルーザーがいっぱいでした。
丁度、ヨットの出廷中。 わぁ、、、寒いのに。

急ぎ、走って近づくと、、、あら、子どもだったんですよ。
小学6年生。長崎のあちこちから、このヨットスクールに週1回通っているそうなのです。
今年、初の出航でしょうね。

スクールの子どもたちは、あっと言う間に、ヨットの帆に風を受けて沖へ、、、、、。
教えてくれた子どもは、コーチとゴムボートで出航しているみんなのところへブワァ〜ンと。

りっぱなマリーナ施設で、ヨットも、クルーザーもたくさん陸に並んでいます。
寒空に船底を点検してる人がチラホラ。

ヨットって判断力、体力、時間、財力がいる最高にチャレンジで贅沢なあそびですものね。

この小学生たちはヨットマンを目指しているんでしょうか?
私のショアジギング事始めもですが、海にあそぶって長崎ならではのこと。いいもんですよ。

あらっ、足先をみれば、私の大好きなゆらり、ゆらりの浮桟橋が帯のように長くのびています。
これは!!っと乗って先端へと。そおっと、、、、そおっと。

子どものころ出島岸壁の浮桟橋に乗って遊んでいたんですもの。乗らずにはいられません。
懐かしいなぁ、、、、このゆら〜り、ゆらりがタマラナイんですよ。
何年かぶりかに福田にある長崎サンセットマリーナに寄ってみました。
ここは母の所へ通うルートにあります。 ふと、、あの海のショップに寄ってみようかと。

曇り空でしかも寒いし、でも、なにかワヤワヤしてる?と思いきや結婚式の人だったんです。

むかし、ここに海のグッズ、貝殻のアクセサリー、ガラス器のショップがあったんですよ。
そこで買った水入れ瓶、ワイン瓶、かざりの瓶はまだ日常に使っています。

聞くと、ずいぶん前にショップはマリーナ施設とTHE VILLASの結婚式会場になったそうです。
月日がたってしまったんですね。

思い出せば、以前に長崎市出身でイタリア在住のソプラノ歌手豊島文さん&豊島正伸さんの
コンサートに出かけたのでしたよ。
この2階の会場で夜のコンサート。正伸さんの歌う武満徹の歌に感銘を受けたのでした。
その時は夜で、海ショップはすでに閉まっていたのが判らなかった。すでに無かったのかぁ。
ご近所のYさんから大きいクロ3匹もらいました。 沖磯に行って釣ったそうです。
わぁ、、、青黒く、釣れたてでビキビキしてて美しい!!

宝石みたいな眼の色を見てください。ア〜と開けた口元も。輝いているしょう!!
魚屋さんに並ぶ時は、この輝きはもう無くなっていますね。 イヤ、魚屋さんにはあまり
並ばないクロ=メジナなんですよ。

早速、今夜は弟夫婦を呼んでプチ宴会をするぞ!と。
気合を入れて不慣れなクロを捌いてみるか、ビキビキの刺身を皆んなで食べると美味しそう。
それでは、捌き方を動画で検索、、、、鯛と同じ方法で格闘30分やっと、三枚おろしに。

三枚おろしから皮をはいで身は刺身に。
頭、皮、血合い、中骨は煮付けに、カマ、中骨はすまし汁に。
魚の部位で捨てたのはウロコと内臓のみで、丸ごとぜ〜んぶを調理します。
動画を横目に見ながら、、、クロを捌き始めて、、ヌルヌルをペーパータオルで押さえて。
やっぱり、魚屋さんみたいにサッサとはいかないもの。
出来ないなんて言わないで修行、修行、釣ったものは何でも美味しく調理して頂くんですよ。
約1時間で、、、できましたぁ刺身が。
庭から葉っぱをとってきて、刺身には不似合いなれど、、、ローズマーリーもアクセントに。

乾杯!今年もボチボチ、、ゆかいにいきましょう。!
元気に、美味しいものをワアワアしゃべりながら食べれるってシヤワセです。

シマッタ、煮付けとすまし汁の写真も撮っておくんだったぁ。
煮付けは弟がパクパク、すまし汁は油がのってて熱々の出汁に柚子を入れて食べましたよ。
ぜ〜んぶ、おいしかったぁ!! ありがとう、Yさん。
お正月の三が日も終わり、諏訪神社の七草粥に行ってきました。

9時半に着いたのですがもう長蛇の人、人、人。
へえ〜っ、以前はこんなに混んではいなかったんですよ。
よく見れば前列に並ぶは妹夫婦じゃないですか、9時過ぎに並んだそうな、、、やっぱりね。
立ち上がりが早い。

どうにか1000人分用意された七草粥に入れました。ヨカッタ、ヨカッタ。
七草粥に梅干1個つけて頂くのですが、ほんのり出汁がきいてて美味しかったですよ。

お詣りして、おみくじをひいたら小吉だったんです。
私の運は「あせってはいけない、控えめに、誠実に」と。深認です。
そうか、そうか、昨夜も大きなポカをしてすみません!の私にはピッタリなお言葉。

おみくじは大吉以外は運気が上るように神社に左手で結んでおくと良い。との娘の指南です。
それではと、樹には結ばないで結び棚に右手で、、、結んできましたよ。