この電停で降りて、出島オランダ商館の正面に通じます。
さて「出島の集い」のトピックス、どん山からです。
どん山:長崎の日の出町に時を刻んでいた午砲台があります。
明治36年から昭和16年3月まで、午砲(12時)に空砲を鳴らしていた。
「ドーン」という音が38年間長崎の街に響き、「どん山」と親しまれていたそうです。
今は、どんの山公園にあります。一度、聴いてみたかった音ですね。
水師橋(すいしばし):銅座川下流が埋め立てられて廃橋となった鉄橋です。
この橋は、日露戦争が起こった明治37年・1904年に架橋されました。
ここより兵将が出発したのを因んで名付けられたそうです。
この電停の先、長崎市民病院の付近だったでしょう。水師橋の上を電車が通過している写真がのっています。
当時の写真つきなので長崎手帖はおもしろいですよ。
第十七回は、長崎手帖No.7・8合冊号の長崎の山の俗称〜出島〜復元したオランダ商館跡〜水師橋〜すすき塚〜郷愁〜あまから履歴書まででした。
定番の長崎手帖は、明治・大正・昭和のこぼれ話がたくさん書かれています。
その中から一つ。外浦町(ほかうらまち)は、長崎県庁の付近のむかしの町名です。
明治18年にコレラが流行した時、死者の棺は二人でかつぎで、五社山の下の焼き場まで運んでいたのですが、その棺が通る町内では、町ごとに音火矢をポンポン鳴らしていました。子どもの頃のことなので、盆が来たように喜びましたが、実はコレラがその町に侵入してくるのを防ぐためのマジナイであったそうです。(外浦町 中村清治)
長崎のお盆の時の花火、爆竹、音火矢(ヤビヤ)は、お墓まいりや精霊流しにかかせません。
びっくりするほどの派手な爆竹音や、ヒュ〜っと音を出して上る音火矢は、魔除けのためです。私もお盆の時だけだと思っていました。
でも、明治の長崎には、棺を二人でかついで通るなど疫病が流行り、死者と隣合わせの危うい暮らしがあったんですね。
第十六回は、長崎手帖No.7・8合冊号のかながしら〜茶のみ話〜長崎の雨〜長崎の匂いまででした。
会でティンカンメールの話が一段落しましたら、定番の長崎手帖です。
今回も、No.7・8(合作号)を少しずつ音読していきます。昭和30年代を生きた方々のこぼれ話をご紹介しましょう。
長崎一番帳の90からビスケットの始まり
ビスケットの始まりは、いつの頃かビスケー湾で英国船が遭難し食料に欠乏した時、塩水に浸った小麦粉やバターなどの残り物を練り合わせて焼き、辛うじて船員が飢えをしのいだので、湾名にちなんでビスケットとよぶようになったそうであるが、長崎で一番始めにビスケットを作ったのは山ノ口の福砂屋である。 明治初年のことで、その頃はまだ機械はなく手でこねて作られたものであった。
「出島の集い」に興味のある方は、参加されてみませんか? 参加は無料です。
詳しくは、ここです。
第十五回は、バラの言葉を借りて〜長崎一番帳・第六集〜長崎というところ〜特集:長崎っ子診断 善意の人たち〜長崎言葉〜長崎なまりまででした。
長崎の出島オランダ商館跡地の、内外倶楽部での交流会です。
出島の最後の住民だった方々、一般で興味のある方の参加をお誘いします。
テーマは、「長崎手帖」と出島をめぐってです。会費は無料。
どうぞ、気軽にお誘いあわせていらっしゃいませんか。
第十五回「出島集い」
日時:2013年 7月28日(日)11:00~13:00
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F
喫茶・レストラン室
会費:無料
内容:交流会(長崎手帖にそって・昭和30年ごろ)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(7月25日迄)
出島は、1951年から50年で全て公有化完了しました。
元、出島に住んでいた方々は50代から80代になられました。
昭和30年ころの懐かしい長崎のようすを皆さんと探りましょう。
第十四回のようすはここです。
大きな地図で見る
梅雨の中、6月30日に出島の内外クラブで集まりました。
今回は、参加者が7名、長崎手帖 №7の続きです。
昭和33年(1958年)「にぎり用語辞典」からの面白い話です。
1)バラ=最大のトロ。脂が筋目に入っていてトロリとした食感がある。→出島の集いのみなさん、食べたことなぁ、、との感想でした。
2)ガリ=生姜のこと。昔は切らずにそのままガリガリとかじったものである。→知りませんでした。
3)ヤマ=昔は笹の葉を使っていたが、今は葉蘭(はらん・生)を代用している。→今は、葉色ビニール製のバランです。
第十四回は、グラフ夜明けの丘〜碑をたずねて・斎藤茂吉の歌碑〜長崎の彩り〜にぎり用語辞典。
あまから履歴書〜珍名集〜諏訪ノ森〜茶のみ話〜長崎の魚と釣りまで。
明治ー大正ー昭和の庶民のことばが編集されていておもしろいです。
興味のある方は、参加されてみませんか? 参加は無料です。
詳しくは、ここです。
第十ニ回も、長崎、出島の内外クラブで集まりました。
新しくYさんも参加され「長崎手帖」の「長崎の山」からです。
みなさん、2012年に選ばれた世界新三大夜景(長崎・香港・モナコ)に、長崎がなって誇らしいと話に花がさきました。
大正時代には、長崎にも椎の実をふれ声で売っていたとの語り文もあります。
どんぐりより、小さめで松の実などと同じ味らしい。こんど食べてみたいなぁ。
出島の内外クラブ横の芝生から、ポ〜ン、ポ〜ンと音が聞こえます。
出島は、バドミントン伝来之地。昔のラケットで修学旅行の女の子たちが遊んでいる音でした。楽しそうです。
出島から全国に広まったものは食べ物以外もたくさんありますね。
今回は、「長崎の山」「椎の実売り」「浜の町の思い出」「俵石」まで。
長崎出島オランダ商館跡地で、今年最後の出島の集いでした。
師走になって寒い日でしたが、内外倶楽部に5名がお集まり下さいました。
ここ出島に橋がかかるのを皆さん楽しみにしていらっしゃいます。
まずは、前回の長崎手帖「山里町の雀」の調べ物でした。
宮田さんから、解らなかったことば「椽」(たるき=屋根を支えるために棟から軒先に渡す長い材木)を教えて頂きました。
今回は、長崎手帖のNo.7・8から。「あら、お菓子」渡辺庫輔さんは、長崎のお菓子の指南文を書いていらっしゃいます。
長崎の菓子は、過去に於いては、確かに日本の菓子の先頭に立つものであった。
高松の唐饅頭、仙台の柚べし、佐賀の丸ボウロ、熊本のカセイタ、松山のタルト、博多の鶏卵素麺、平戸のカスドウス、鹿児島の文旦漬など、今日、その土地を代表する菓子はいづれも長崎から製法を伝えてのであった。
それらの菓子は、長崎の町には極めてありふれた菓子であった。それだけに、長崎の菓子屋は、その一つ一つに力こぶを入れなかったのであろう。
長崎には、わずかに、カステラだけが名物として残された。かつて、長崎が天下に誇った砂糖漬けも忘れられた。・・・(長崎手帖・「あら、お菓子」より抜粋)
ここ、オランダ屋敷のお隣さんだった松本さんと宮田さん。
鶏卵素麺、丸ボウロ、文旦漬。それにもちろんカステラ、鶴の子、饅頭は大好きです。
安土桃山時代に南蛮菓子として長崎から広まったお菓子たちです。
みなさん、和菓子を食べましょう!!
ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー
長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々がいます。
出島は、1951年から50年で全て公有化完了。集いの方々の年齢は、50代から80代です。
出島に縁のある方々が中心ですが、どなたでも参加できます。
場所は、いつもの長崎出島オランダ商館跡地の内外クラブです。
テーマは、「長崎手帖」を土台にして出島と昭和30年ころを探って。どうぞ、お誘い合わせてお出かけ下さい。
第九回「出島集い」
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日時:2012年 11月18日(日)11:00~13:00
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F
喫茶・レストラン室
会費:無料
内容:交流会(長崎手帖にそって・昭和30年ごろ)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり(旧姓 山口)
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(11月13日迄)
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久しぶりに6名が参加された「出島の集い」です。
カラリと晴れた9月23日(日)まつくら茶屋でした。松庫さんも出島に海産物のお店があったそうです。
集いの方々の年齢は、50代から80代。出島に縁のある方々が中心ですがどなたでも参加できます。
今回は、長崎手帖の”ビールの飲み方”と”あまから履歴書”でした。
なにせ、昭和30年代の長崎手帖です。半世紀も前だとガラリと長崎のようすもちがって昔のお話は面白い。古地図を広げながらです。
”あまから履歴書”には、お酒、ビール、懐かしいお菓子が書いてあって、「東郷せんべい」の名前がありました。
東郷さんにまつわるものは、切手、東郷煎餅、東郷ストリート(トルコ)もあるそうです。
長崎の今博多町は昔、あめがた町と言われていたらしい・・。
昭和30年ころの長崎の庶民の生活ぶりを、こむずかしい歴史でなくホホ〜と覗いて楽しむ。その手引きには長崎手帖はピッタリです。
昼食は生からすみ丼を頂き、集いの会は終わりました。
次回は、出島の旧長崎内外クラブで11月18日の予定です。
からすみ茶屋 まつくら
長崎市東古川町3-11-201
Tel:095-827-1023
営業時間11:30~15:00(火~土)日・月曜休み