会でティンカンメールの話が一段落しましたら、定番の長崎手帖です。
今回も、No.7・8(合作号)を少しずつ音読していきます。昭和30年代を生きた方々のこぼれ話をご紹介しましょう。
長崎一番帳の90からビスケットの始まり
ビスケットの始まりは、いつの頃かビスケー湾で英国船が遭難し食料に欠乏した時、塩水に浸った小麦粉やバターなどの残り物を練り合わせて焼き、辛うじて船員が飢えをしのいだので、湾名にちなんでビスケットとよぶようになったそうであるが、長崎で一番始めにビスケットを作ったのは山ノ口の福砂屋である。 明治初年のことで、その頃はまだ機械はなく手でこねて作られたものであった。
「出島の集い」に興味のある方は、参加されてみませんか? 参加は無料です。
詳しくは、ここです。
第十五回は、バラの言葉を借りて〜長崎一番帳・第六集〜長崎というところ〜特集:長崎っ子診断 善意の人たち〜長崎言葉〜長崎なまりまででした。
長崎の出島オランダ商館跡地の、内外倶楽部での交流会です。
出島の最後の住民だった方々、一般で興味のある方の参加をお誘いします。
テーマは、「長崎手帖」と出島をめぐってです。会費は無料。
どうぞ、気軽にお誘いあわせていらっしゃいませんか。
第十五回「出島集い」
日時:2013年 7月28日(日)11:00~13:00
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F
喫茶・レストラン室
会費:無料
内容:交流会(長崎手帖にそって・昭和30年ごろ)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(7月25日迄)
出島は、1951年から50年で全て公有化完了しました。
元、出島に住んでいた方々は50代から80代になられました。
昭和30年ころの懐かしい長崎のようすを皆さんと探りましょう。
第十四回のようすはここです。
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梅雨の中、6月30日に出島の内外クラブで集まりました。
今回は、参加者が7名、長崎手帖 №7の続きです。
昭和33年(1958年)「にぎり用語辞典」からの面白い話です。
1)バラ=最大のトロ。脂が筋目に入っていてトロリとした食感がある。→出島の集いのみなさん、食べたことなぁ、、との感想でした。
2)ガリ=生姜のこと。昔は切らずにそのままガリガリとかじったものである。→知りませんでした。
3)ヤマ=昔は笹の葉を使っていたが、今は葉蘭(はらん・生)を代用している。→今は、葉色ビニール製のバランです。
第十四回は、グラフ夜明けの丘〜碑をたずねて・斎藤茂吉の歌碑〜長崎の彩り〜にぎり用語辞典。
あまから履歴書〜珍名集〜諏訪ノ森〜茶のみ話〜長崎の魚と釣りまで。
明治ー大正ー昭和の庶民のことばが編集されていておもしろいです。
興味のある方は、参加されてみませんか? 参加は無料です。
詳しくは、ここです。
長崎の出島オランダ商館跡地の、内外倶楽部での交流会です。
参加は、出島の最後の住民だった方々、一般で興味のある方をお誘いします。
テーマは、「長崎手帖」と出島をめぐってです。会費は無料。
どうぞ、気軽にお誘いあわせご参加下さい。
第十四回「出島集い」
日時:2013年 6月30日(日)11:00~13:00
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F
喫茶・レストラン室
会費:無料
内容:交流会(長崎手帖にそって・昭和30年ごろ)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(6月27日迄)
出島は、1951年から50年で全て公有化完了しました。
元、出島に住んでいた方々は50代から80代になられました。
昭和30年ころの懐かしい長崎のようすを皆さんと探りましょう。
第十三回のようすはここです。
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ながさき紫陽花まつり中の5月26日に、長崎出島の内外クラブで集まりました。
Yさんが「長崎手帖」の?宿題を調べて来てくださった!!
1)浜市アケードはいつ建てられた?
昭和32年に初めて→昭和52年に9000万円かけてリニューアル。
会長は、田中直一さん(タナカヤ)だった。
2)松山町(元、駒場町)の運動場 元は、競輪場だった。
朝帰りの魚市の人たちで賑わっていたそうです。
3)小川町の読み方→コガワ町です。
定番の「長崎手帖」No.7の途中から始まりました。
順は、カステラ茶話〜鉄砲ん玉〜長崎のあれこれ、その7〜新田次郎のことなど〜夜明けの丘まで。
Yさんの京都のお土産をいただいて、第十二回は終わりました。
6月は、30日(日)の予定です。
興味のある方は、参加されてみませんか?詳しくはここです。
第十ニ回も、長崎、出島の内外クラブで集まりました。
新しくYさんも参加され「長崎手帖」の「長崎の山」からです。
みなさん、2012年に選ばれた世界新三大夜景(長崎・香港・モナコ)に、長崎がなって誇らしいと話に花がさきました。
大正時代には、長崎にも椎の実をふれ声で売っていたとの語り文もあります。
どんぐりより、小さめで松の実などと同じ味らしい。こんど食べてみたいなぁ。
出島の内外クラブ横の芝生から、ポ〜ン、ポ〜ンと音が聞こえます。
出島は、バドミントン伝来之地。昔のラケットで修学旅行の女の子たちが遊んでいる音でした。楽しそうです。
出島から全国に広まったものは食べ物以外もたくさんありますね。
今回は、「長崎の山」「椎の実売り」「浜の町の思い出」「俵石」まで。
第十一回は、2013年初めての2月10日でした。
長崎の出島内にある内外倶楽部で4名が参加です。
月1回、つたない私の音読で長崎手帖を少しづつすすみます。
昭和30年代の長崎の庶民の生活が、写真もあって面白い小冊子集なのです。
写真を見てみなさんから?がでました。
1)浜の町でのアケードはいつできたんだろうか?
2)鈴蘭燈は銅座にあったのだろうか?
それから、本の卓袱(しっぽく)料理 のおひれにまつわる話や、昔の漢字が読めないのをアレコレ調べたりもします。
気張らず、よもやま話が広がって語らうのが楽しい。ほのぼのとしていますよ。
どうぞ、興味のある方は参加されて下さい。
次回は3月10日予定です。
長崎出島オランダ商館跡地で、2ヶ月ぶりに集まりました。
手引きは、長崎手帖。No.6「山里町の雀」から、昭和30年ころの長崎の暮らしぶりがおもしろいんです。
長崎一番の切手コレクターの話では、海江田さんから面白いお話がでました。さすがに有名な切手コレクターでいらっしゃったわけです。
それは、”ティンカンメール” ブリキの缶に入った手紙のお話です。
むかし、メールなどない時代、イギリス本国から植民地に手紙を船で運ぶ時につかった運送方法だそうです。
船が浅瀬で船着場まで着岸できない時は、ブリキ缶に入れた手紙をポーンと海に投げる。それを現地の人が泳いで取りにいったそうです。
そのティンカンメールの缶を海江田さんは持っていて、次回、見せて下さることになりました。
”ティンカンメール”は知らなかったなぁ。楽しみです!!
ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー
長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々がいます。
出島は、1951年から50年で全て公有化完了。集いの方々の年齢は、50代から80代です。
出島に縁のある方々が中心ですが、どなたでも参加できます。
場所は、いつもの長崎出島オランダ商館跡地の内外クラブです。
テーマは、「長崎手帖」を土台にして出島と昭和30年ころを探って。どうぞ、お誘い合わせてお出かけ下さい。
第九回「出島集い」
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日時:2012年 11月18日(日)11:00~13:00
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F
喫茶・レストラン室
会費:無料
内容:交流会(長崎手帖にそって・昭和30年ごろ)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり(旧姓 山口)
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(11月13日迄)
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ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー
長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々がいます。
出島は、1951年から50年で全て公有化完了。さらに11年経った「集い会」です。
場所は、いつもの長崎出島オランダ商館跡地の内外クラブに集いです。
テーマは、「長崎手帖」を土台にして出島と昭和30年ころを探って。どうぞ、お誘い合わせてお出かけ下さい。
第七回「出島集い」
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日時:2012年 7月15日(日)11:00~13:00
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F
喫茶・レストラン室
会費:無料
内容:交流会(長崎手帖にそって・昭和30年ごろ)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり(旧姓 山口)
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(7月13日迄)
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今回は、出島にお店があった松庫さんや吉田染料店の吉田さんもお誘いしています。
おもしろい昭和20年、30年代の出島や長崎のお話が聴けるかもしれません。
どうぞ、楽しみにしていらして下さい。
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ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー
長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々がいます。
出島は、1951年から50年で全て公有化完了。さらに11年経った「集い会」です。
今回は、生からすみの松庫さんの出店:からすみ茶屋 まつくらで開きます。
テーマは、「長崎手帖」を土台にして出島と昭和30年ころを探って。どうぞ、お誘い合わせてお出かけ下さい。
第六回「出島集い」
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日時:2012年 6月10日(日)12:00~14:00
場所:長崎市東古川町3-11-201 からすみ茶屋 まつくら:095-827-1023
会費:無料
内容:交流会(懐かしい出島の暮らしぶり、思い出など・・)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり(旧姓 山口)
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(6月9日迄)
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今回は、出島にお店があった松庫さんや吉田染料店の吉田さんもお誘いしています。
おもしろい昭和20年、30年代の出島や長崎のお話が聴けるかもしれません。
どうぞ、生からすみ丼もお楽しみにしていらして下さい。
久しぶりに「出島の集い」の5回目を2012年4月8日(日)を開きました。
場所は、いつもの長崎出島オランダ商館跡地の内外クラブに集いです。
内容は、長崎手帖にそって。今回は、長崎一番帳と新地の昔話やこぼれ話です。
昭和30年代の長崎の様々な事柄の一番帳を読みながら古地図を見て、今の時代と地図と比べて話しました。
長崎手帖/長崎一番帳から・・昭和31年(1956)算定です。
*長崎で一番古いクリーニング店は、大浦相生町の青田クリーニング店。創業は明治6年で83年になる。
初代青田嘉吉氏は当時はロシヤ艦隊その他外国船舶の御用達だったこと。当主青田梶郎氏は二代目。
*長崎で一番水を使う所は、三菱長崎造船所。昭和30年10月は使用量69,268立方米、料金は1,658,152円であった。
大浦のクリーニング店はたくさんあってお得意様は大浦のお隣、南山手に住んでいる居留地の外国人が多かったそうです。
当時は日本人でクリーニングに出す人は稀だったでしょう。今も青田クリーニング店さんは大浦にあります。
三菱長崎造船所の水道料は、今に換算すれば1ヶ月に約1660万円。エエッ、すごい水道料です。(約10倍に見積もって)
この長崎手帖が昭和33年再販価格が1部20円、郵便切手代8円。現在と比較して約10倍にしてみたのですが。
次回「出島の集い6」は2012年5月20日(日)の予定です。
興味のある方は、どうぞご連絡ください。
連絡先:Tel&Fax :095-846-1642 山田ゆかり
e-mail:
「長崎手帖」を読みながら語りましょう・・「出島の集い」の方針がつきました。小册ながら昭和30年代の長崎人の息づかいが聞こえて面白そうと。
故田栗奎作(たぐりけいさく)氏が発行された昭和30年〜42年までの小冊で全40冊。
「長崎手帖」創刊の言葉
こんど、こんな小さい手帖をだすことにしました。長崎のさまざまな味と色と匂を、こぼれるようにもりたいと思っています。
世の中が、つまればつまる程、なぜかユーモアがほしくなり、カサカサした生活に、すこしでもうるおいを持たせることが出来たらというのが、私のささやかな願いです。
薄っぺらなものですが、毎月出して行きたいと思っています。
もし、この手帖の中のどこかが微笑をさそい、ひとつの話題となり、そしてひとときの憩いとなることが出来れば、この上もないことです。
このやさしい言葉が、ジ〜ンと心をうちます。あたたかい眼差しで長崎を見つめた方がいらっしゃったのですね。
半世紀をすぎて「出島の集い」の場で、微笑をさそう憩いの小册にさせて頂きます。感謝いたします。
今回は、平日の開催です。皆さんがご高齢になってきたので体調や季節にも気をつけてです。
内外クラブは外装の修理の為テントに覆われていましたが、内外クラブのレストランで4名が参加されました。
出島復元整備室長の馬見塚さん交えて、これから出島オランダ商館跡地復元計画を聞きました。
発掘調査が終わった後、5、6 年で乙名詰所、14、15、16番蔵、筆者部屋、番書などが復元。中島川に橋を架けて橋から出島に入場の構想もあるそうです。
その構想を聞いて「それは、橋が架かると出島らしくなって嬉しいですね。」と皆さんは期待。次に、これからの会のテーマ決めにかかりました。
坂井さんが紹介して下さった「長崎手帖」を見ながら「ニュー洋装店」の話しに。出島は浜の町とすぐ近い。昭和30年頃の記憶もよみがえります。
そうそう、「長崎手帖」を土台にして出島と当時を探って行ったら面白そう!! とテーマが見えて来ました。
オランダ屋敷のお隣さんは漬物店の松本商事・松本勇治さんの倉庫でした。
参加されたのはお孫さんの松本憲明さんと、 当時の事をよく知っている憲明さんの叔父の宮田さんと一緒にいらっしゃいました。 松本勇治お爺さんの出島話をして下さいました。
「1950年(昭和25年)始まった朝鮮戦争で地金で儲けた西野商店が戦後に傾いたんです。 そこで、農林中金から松本の爺様に話しのあって、吉田染料に100坪。松本に100坪。 買うてくれんか?と。・・多分、爺様は昭和32年ごろ買ったんです。」と話されました。
「それから・・・松本の爺様は、お酒が大好きで、闇酒も作ったんです。出島でも一斗がめに作ってて・・腕が達者だったんで、味噌、漬物、佃煮の製造元で扱っていたんです。」と。
「その酒の美味しゅうて、よく呼ばれて出島で飲んどったんですよ。爺様が亡くなってその酒は床ン下に半分は残ってたけど、ぜ〜んぶ、酢になっとった。 そん酒が美味しくですね!! 」と。
「 あの味は覚えています。飲みながらこの川で鰻バ釣いよったとです。それから、日野さんの爺さんの時にしょっちゅう出かけて飲みに行ってました。」と。
面白い話が出ました。 わぁ!! こんな出島の面白い話や鰻が釣れたなんて!! それに、宮田さんのお孫さんは、前にわらべうたを手伝ってくれた大学生だった。世間は狭い!!
宮田さんは、松本商事から昭和36年に独立。同じ漬物業で刻み唐人菜の「うまかばい」などを作られて今は、息子さんに㈱ミヤタを譲られてるそうです。
また宮田さんにお話して頂きましょう。 次回の9月4日が楽しみです。