父のスクラップ帳から西日本新聞の昭和28年1月28日の記事の見つかりました。
記事の中の出島の復元計画見取り図を見ているとk病院とは海江田病院
県立病院は出島病院、隣が内外クラブ、朝永病院でした。
海江田病院の向かいは銭上倉庫があったと記憶しています。
旧長崎内外クラブにはオランダ商館内から移って数年間暮らしたこともあります。
クラブに入ると石の通路があって、1階をキッチンに使っていました。
2階の居間も西洋風なので天井が高く、気持は良かったのですが、、、、
自分たちで壁や天井に白いペンキを塗るのが大変でした。
だって面積が広くて、広くて。 でもあれ以来ペンキ塗りは好きです。
それに、今からすると当たり前のことでしょうが、、、、
内外クラブの部屋の間仕切りが重い大きな丸のノブのついたドアだったのです。
建物自体は古かったのですが昭和30年〜40年代当時には居間がドアで区切られるのは
ハイカラだったんですね。
私たち家族は西洋の個室の先がげをいく建築物に暮らしてみて、その生活空間が
なじんだのでしょう。
後年、父は西山と千々に家を建てた時、普通の家よりも天井を高くし、ドアも特別に
つくったわけが解ったような気がします。
今考えると懐かしいくも、貴重な空間に暮らした思います。