「長崎手帖」を読みながら語りましょう・・「出島の集い」の方針がつきました。小册ながら昭和30年代の長崎人の息づかいが聞こえて面白そうと。
故田栗奎作(たぐりけいさく)氏が発行された昭和30年〜42年までの小冊で全40冊。
「長崎手帖」創刊の言葉
こんど、こんな小さい手帖をだすことにしました。長崎のさまざまな味と色と匂を、こぼれるようにもりたいと思っています。
世の中が、つまればつまる程、なぜかユーモアがほしくなり、カサカサした生活に、すこしでもうるおいを持たせることが出来たらというのが、私のささやかな願いです。
薄っぺらなものですが、毎月出して行きたいと思っています。
もし、この手帖の中のどこかが微笑をさそい、ひとつの話題となり、そしてひとときの憩いとなることが出来れば、この上もないことです。
このやさしい言葉が、ジ〜ンと心をうちます。あたたかい眼差しで長崎を見つめた方がいらっしゃったのですね。
半世紀をすぎて「出島の集い」の場で、微笑をさそう憩いの小册にさせて頂きます。感謝いたします。
今回は、平日の開催です。皆さんがご高齢になってきたので体調や季節にも気をつけてです。
内外クラブは外装の修理の為テントに覆われていましたが、内外クラブのレストランで4名が参加されました。
出島復元整備室長の馬見塚さん交えて、これから出島オランダ商館跡地復元計画を聞きました。
発掘調査が終わった後、5、6 年で乙名詰所、14、15、16番蔵、筆者部屋、番書などが復元。中島川に橋を架けて橋から出島に入場の構想もあるそうです。
その構想を聞いて「それは、橋が架かると出島らしくなって嬉しいですね。」と皆さんは期待。次に、これからの会のテーマ決めにかかりました。
坂井さんが紹介して下さった「長崎手帖」を見ながら「ニュー洋装店」の話しに。出島は浜の町とすぐ近い。昭和30年頃の記憶もよみがえります。
そうそう、「長崎手帖」を土台にして出島と当時を探って行ったら面白そう!! とテーマが見えて来ました。
ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー
長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々がいます。長崎市内に点在していらっしゃいるのです。私も小学校から高校卒業まで育ちました。当時は・・あたり前として。
出島は、1951年から50年かかって全て公有化完了。さらに10年経った2011年に「集い会」です。2011年7月24日が第一回。9月4日に第二回。今回は、第三回のお誘いです。
「第三回 出島集い」
日時:2011年 11月10日(木)午前11時~13時
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F 喫茶・レストラン室 095-821-7200
会費:無料
内容:交流会(懐かしい出島の暮らしぶり、思い出など・・)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり(旧姓 山口)
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(11月6日迄)
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「第一回 出島の集い」その2では、宮田さんの面白いお話。戦後間もないころの情景が目に浮かびます。今は、出島オランダ商館跡地に住民は無く、当時を語りつぐ方々もわずかです。
長崎で最も特別な場所、出島。その最後の暮らしぶりを伝えたいです。
夏の暑い盛りに食べる楽しみは冷菓です。我が家には、50年前にアンティックかき氷機がありました。
角氷を滑らないように爪を噛ませてセットし、手回しをグルグルまわしてかき氷を作っていました。シャカシャカと削られる白い氷を、左手に持ったガラス器で受け取ります。くねくねと手首をまわし器に山盛りに、とちゅうで形を整えながら・・てんこ盛りすぎるとボタリ・・。
毒々しい緑のメロン味とか赤のイチゴ味に練乳をかけて食べたものでした。家のあのかき氷機はどこにいったのでしょうか・・わかりません。 youtubeに同じようなかき氷機がありましたよ。
かき氷も懐かしいですが、今は、アイスクリームかジェラートです。アリタのインサラーダ エゾーティカのジェラートを食べてみました。
サラダエキゾチックって、ライチ・パッション・マンゴー・グレープフルーツ・パイナップルが入っている!! 美味しそうです。私は、そそっかしいから、ポタリ!と落とすのではないかとカップにばかりしていたのですが・・コーンにしてみました。
サラダエキゾチックは、たくさんの味がミックスされてて・・・ワカラン?味でしたよ。でも、コーンは、パリパリとしていて美味しかったです。
去年もアリタのジェラートをよく食べました。今年は残暑がきびしいから9月、10月中はまだまだ、ジェラート期間中ですね。
今回の出島の集いは、四人の皆さんの回想から・・・昭和初期の長崎の市場や出島商館跡地に暮らした人のリアルな姿が浮かび上がってきました。
集いは、筋を決めて進める会議などではないので、歴史的な資料にはならないでしょうが、当時の出島の生活・風景・繋がりをホンワカと懐かしむ場になりました。
宮田さん・松本さんの回想
現在の長崎市中央卸売市場までの歴史は、長崎に青果市場が八幡町にできて→十八銀行本店の道路はさんだ銅座町に→長崎魚市跡地の尾上町に→現在の東長崎の田中町に移っていったそうです。
漬物など食品を商う松本商事さんも、青果市場が八幡町から銅座に移った時に、爺様がドーンと今ある銅座に居を構え、その近くの出島にも倉庫を建てたそうです。多分、出島の倉庫は隠居部屋にとの思いだったからでしょうと。商売繁盛だったそうです。
商い人たちは、青果市場が動くたびに、市場に携わっていた人たちがその周りに住む。又、市場が移っていくと商いの人たちも付いていくんだそうですよ。
海江田さんの回想
海江田病院は、長崎市に移譲した後、大分かどこかの文化財団の方が病院の防空壕を掘り起こして、いろんな資料を持って行ったそうです。その中に病院の建て替え札・昭和6年もあったそうです。手術室のタイルはイタリア製、玄関のタイルはドイツ製とか・・でも、長崎には無いそうです。。残念ですね。
それに当時、玉江橋の一本海よりに出島の岸壁まで伸びる国鉄の線路橋が引いてあって、枕木の下は海がチャポチャポと波うってて、その枕木を渡る悪い子!!がいたそうです。・・それは、私や松本さんの子どもの時の姿で・・ハラハラ、ドキドキがたまらないスリルだったのです。アハハの悪い子だったんですよ。
八坂眼科→朝長病院→市に移譲の移り変わり。それに稲崎材木店の脇の海・川側にゆるい階段があって、川で馬を洗っていた光景が目に焼き付いている。などなど、海江田さんの面白いお話は続きます。。。
昭和の長崎のオランダ商館跡地・出島の風景が見え始め、次回の11月が楽しみです。
ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー
2011年7月24日「第一回 出島の集い」に長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々が、8名集まって下さいました。1951年から50年かかって全て公有化完了し、それから10年経ってからでした。
皆さんは、それぞれ個別に公有化に応じられたので、バラバラになってしまって一同に集まるのは久しぶりで懐かしいと・・・それでは、続きの第二回をしましょう!!というお誘いです。
「第二回 出島集い」
日時:2011年 9月4日(日)午前11時~13時
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F 喫茶・レストラン室 095-821-7200
会費:無料
内容:交流会(懐かしい出島の思い出など)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり
e-mail : warabeutaアットgmail.com 要連絡(8月31日迄)
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前回の「第一回 出島の集い」その2 松本商事さんでは、当時の宮田さんの面白いお話が聴けました。住んでいた人の姿が目に浮かぶ様で・・・懐かしいひと時でした。またお会いできるのが楽しみです。
オランダ屋敷のお隣さんは漬物店の松本商事・松本勇治さんの倉庫でした。
参加されたのはお孫さんの松本憲明さんと、 当時の事をよく知っている憲明さんの叔父の宮田さんと一緒にいらっしゃいました。 松本勇治お爺さんの出島話をして下さいました。
「1950年(昭和25年)始まった朝鮮戦争で地金で儲けた西野商店が戦後に傾いたんです。 そこで、農林中金から松本の爺様に話しのあって、吉田染料に100坪。松本に100坪。 買うてくれんか?と。・・多分、爺様は昭和32年ごろ買ったんです。」と話されました。
「それから・・・松本の爺様は、お酒が大好きで、闇酒も作ったんです。出島でも一斗がめに作ってて・・腕が達者だったんで、味噌、漬物、佃煮の製造元で扱っていたんです。」と。
「その酒の美味しゅうて、よく呼ばれて出島で飲んどったんですよ。爺様が亡くなってその酒は床ン下に半分は残ってたけど、ぜ〜んぶ、酢になっとった。 そん酒が美味しくですね!! 」と。
「 あの味は覚えています。飲みながらこの川で鰻バ釣いよったとです。それから、日野さんの爺さんの時にしょっちゅう出かけて飲みに行ってました。」と。
面白い話が出ました。 わぁ!! こんな出島の面白い話や鰻が釣れたなんて!! それに、宮田さんのお孫さんは、前にわらべうたを手伝ってくれた大学生だった。世間は狭い!!
宮田さんは、松本商事から昭和36年に独立。同じ漬物業で刻み唐人菜の「うまかばい」などを作られて今は、息子さんに㈱ミヤタを譲られてるそうです。
また宮田さんにお話して頂きましょう。 次回の9月4日が楽しみです。
長崎の出島オランダ商館跡地、最後の住民だった方々が集まって下さいました。
1951年は私が生まれた年で公有化開始年。2001年に50年かかって全て公有化完了です。
2011年は開始から60年経ち、7月24日に元出島住民の「第一回 出島集い」です。
それぞれ、個別に公有化に応じられたので、バラバラになって一同には久しぶり。 出島の旧長崎内外倶楽部のレストランで8名の方が集まりました。
ぽろぽろ懐かしい出島オランダ商館跡地での生活ぶり、こぼれ話がでて。ランチしながらの交流会を月1回しましょう!!となりました。
この60年で出島復元整備も少しずつ進み、出島公式HPのいろんなイベントも楽しみです。
これから、皆さんの面白い出島こぼれ話と復元話も伝えていきますね。
長崎では昭和30年代、子どもが行くような図書館はありませんでした。
その当時は、リヤカーで古着や雑貨と一緒に古本も売っていたんです。母に本を買ってもらって題名を覚えているのは「夾竹桃の花咲けば」でした。
その本はもう手元にはなく、県立図書館に行ったらわかるかもと行ってみました。 すると、蔵書庫から探してもらった本は、すごく古いんです。びっくり!!
古いはずです。佐藤愛子が母の時代だから、そのお父さんの佐藤紅緑の本ですもの。 記憶ではカラーの表紙だったような?・・少女クラブの昭和5年7月号〜昭和6年6月号。
多分、母が若い時に読んだ本を娘に!と買ってくれたのでしょうね。 どんなストーリーか覚えていないんですが、でも・・・嬉しかったのは確かです。
ちなみに、今でも母は佐藤愛子の本の大ファンです。
先日、長崎のクジラ(鯨)商の日野浩二さんに会うことが叶いました。
日野さんは、鯨の第一人者でNHK「知る楽」日本くじら物語 2009年8月18日放送の
”第3回 鯨食文化の灯は消えず”に出ていらっしゃる方でした。
私とは、昭和30年〜長崎の出島商館跡地に住んでらしたのでご近所だった事になります。
当時、私は小学生だったので出島といってもなかなか接点がなかったのかも知れず、、、
日野さんと親しい海江田さんに教えて頂いたのです。
昭和36頃にオランダ屋敷と呼ばれていた時に陶製の大門の前で妹とった写真をお見せしたら
その門は戦後、県庁の裏手にゴロンと横たわっていたそうです。 びっくり!!
昔から出島にあったと思ってて、、ものごごろついた頃は堂々と大門になっていましたが。
移動したのだったら、「オランダ屋敷を復元」の西日本新聞/昭和30年の記事で昭和27年に
基礎調査が 始まったので・・・その頃でしょうか。
新聞に写っている片手に書類を持っている父の姿が懐かしいです。
日野さんには、出島のことの他に、カラスミの話など教えていただいて面白かったです。
最近のカラスミは輸入もので、乾燥機なので天日でゆっくり干して発酵させたカラスミとは
ぜんぜん味が違う・・・などのお話も聴かせて下さいました。
長崎文献社から「鯨と生きる」日野浩二の人生という本も出版されています。
貴重な本も頂きお話も聴けて本当に良かったです。 ありがとうございました。
また、いろんなお話をもっともっと、、、お聴きしに行きたいです。
先日、”みさかえ”で「さらやしきのおきく」という紙芝居を即興音楽つきでしました。
おきくの幽霊が皿を一ま〜い、二ま〜い、と数えていくのですが、、、そこは、落語です。
最後に落ちがあって笑えるんですよ。
桂文我とう落語家が「番長皿屋敷」を子どもや大人も楽しめる”おおわらい落語劇場”として
脚本にしたものです。 全部で6巻ありました。
”みさかえ”のみなさんに面白いって言われるのは、語りだけではない即興音楽や効果音の
生ライブにジ〜ッと見入ってしまうらしいのです。
紙芝居は静止絵ながら、生の人の声や音楽があるのと無いのでは違うのですね。
紙芝居は、私も面白いのでまた誰かにやってあげたいなぁ!って思ってしまうんです。
どうして、こんなに紙芝居が好きだったのかと自分でも不思議に思うのですが、、、、
思いかえせば、、、、先日も、母のところで「長崎おもいで散歩」を見ていた時です。
母は本の表紙の女の子を指さし「この女の子はあんたね?」って言うんです。
同じぐらいの年、格好ですが、私ではないんです。、、、、でも何度も聞かれます。
昭和30年後半の紙芝居風景は「そう、そうの通りだったよね!!」と膝をピシリ、ピシリと
相づちを打つ感が私にあるんですよ。
幼い時の刷り込みは面白いものですね。
だから、紙芝居を見るのも、語るのも、即興音楽も好きなのですね。
誰かぁ、、「紙芝居」を観たい、聴きたい人、手をあげて!!って呼び掛けたいなぁ。
母は、戌(いぬ)年でもう今年で89歳になります。
2年前まではバリバリと運転もするスーパーおばあちゃんでしたが、病気入院をした後
寄る年波には勝てず、、、今は、住宅型有料老人ホームに居ます。
その母にクリスタルの雛人形を持って行きました。手作りの桃カステラも。
赤い箱に酒袋製コースター、ぼんぼりは木製お雛セットの。後ろの屏風は贈答の中敷ですよ。
これで、部屋が明るくなりました。
母と話すのは昔のことが多く、今日は持っていった”長崎おもいで散歩”の長久橋付近の
写真をジーッと。
「うちの、最初ん車はこの車んごたっコロナやったねぇ」と。
「そうやった!ここのヒゲ爺タネ店でよう買いよったと、何のタネでんあったとよ!」など。
写真をよく見れば、築町の御座船が回っている横の電柱に海江田病院の看板が。
そうそう、当時の海江田病院の若奥様に会いに行った話などアレコレに花が咲きました。
出島のオランダ屋敷に暮らして居た昔話などが芋づる式にぺちゃくちゃ、、、と。
昭和30年頃、幼い私たち妹弟は長崎出島19番地に住んでいました。
直ぐ近くの長崎出島5番地は、耳鼻科の 海江田病院 だったのです。
先日、その病院の奥様だった海江田百合子さんに会いにいきました。
今は出島史跡整備のため出島をでられましたが、その頃の様子を懐かしくお話
して下さいました。
百合子さんが海江田家に嫁がれたのが昭和28年だったそうです。
やはり、海江田さんのルーツは薩摩の伊集院。士族の海江田信義のご一族でした。
先々代、海江田純氏は大正11年に長崎大学医学部(元長崎医専)を卒業されて
昭和6年に長崎出島5番地で開業されたそうです。
出島5番地は、幕末から明治にかけて長崎に住んでいたフランス人貿易商ピニャテル家の
自宅と会社があったそうです。
そのピニャテルの洋館を引き継がれたのが海江田氏とわかったのでした!!
ヴィクトール・ピニャテルは大正11年に亡くなり坂本町の長崎国際墓地に。
トーマス・B・グラバーと一緒の坂本町の地に眠っています。
海江田百合子さんには、出島のご近所の方々に加え、千馬町、おくんち、薩摩などのお話が
たくさん、たくさん、、、懐かしくて。お世話になりました。
やっと、出島5番地の転遷が幕末まで遡れてうれしいです!!
この本を知ったのは” 本「かあさんのレシピ」” に載っていたからでした。
昭和30年ころの懐かしい中央橋の写真にクギズケになりました。
母に見せると、バカ盛り食堂は後ろの通りまで間口が細長く大きかったそうです。
弟に見せると、桃カステラを買いにパシリさせられたなどポロポロとおもいでが。
前のページには、”思案橋終点 昔の岡政(現大丸)浜屋がみえる” とあります。
戦後ネオンが流行ったらしく、ネオンが光光と輝いて貧しくとも希望がある写真です。
母の話で、当時は大きな十八銀行の動くネオンもあったそうです。
そのネオンは、通帳がダンダンダンと弧を描いて飛んで18銀行に入っていくらしいのです。
通帳が届くと、幼い私は「モッテッター、モッテッター、モッテッター、」って。
たぶん、1歳ぐらいでしょう。昭和27年ですね。 おぼえていないけど、、、。
岡政が大丸に変わる時もガッカリ。こんど2011年7月で大丸も無くなるのはガックリ!!
浜町のデパートが、、、、さびしいな。
時代がガラガラと変わっているのでしょう。
でも、オフ会でお会いしたの川崎啓一郎さんみたいに「前向きにまいりましょう!」ですね。
私も、ゆかいな日々をね!ポツポツと。
50年前に摘んだ 四つ葉のクローバーは、大切に”やさしき御母”の本に挟んでとっています。
子ども心に四つ葉のクローバーを見つけると幸せになると思って。
クローバーを見つけるとワァって小躍りするように一日が満たされていました。
摘んだ場所も覚えています。 ピアノの先生のお屋敷の広い庭。
ハッキリとした情景が、、、、そのお屋敷はアーチ型の石門がスクッと建っていて、それを
くぐって階段を登ると右手に大きな庭があったのです。
その庭の中央に、石造りの路がお屋敷まで伸びていて両脇に野の花や花壇がありました。
2台のグランドピアノがドド〜ンとある応接間でのレッスン。
私は落ちこぼれな存在だったので、優等生がピアノのレッスンをしている時はいつも外庭で
遊んでいるように!と言われていました。
ヨカッタ! 外だ!
ピアノの部屋で、縮こまってお行儀よくレッスンを拝聴するより嬉しかったんですよ。
どう見てもピアノ向きな子どもではなかったんですね。
その昔、先生は東京へ。
通った坂道は旧道になってしまい、お屋敷は大きなマンションに様変わりしていましたよ。
挟んでいた本”やさしき御母”も昭和30年頃の本です。
当時、ボロ屋のおじさんが何でもリヤカーで売ってて、母に買ってもらった本でした。
ビックリ、、、この古本も半世紀も経ったのですから。
ピアノに行く時は足取り重く、、、長い坂道をトボトボ、、、、暗い面持ちで。
帰りは「ラッララ〜、終わったよ!」と。
レッスン帰りに、野球ボールチョコ1個買って頬ばるのが楽しみな子でしたよ。