わらべうたとゆかいな日々
わらべうた 長崎のこと スモーク(くん製)

今回の出島の集いは、四人の皆さんの回想から・・・昭和初期の長崎の市場や出島商館跡地に暮らした人のリアルな姿が浮かび上がってきました。

集いは、筋を決めて進める会議などではないので、歴史的な資料にはならないでしょうが、当時の出島の生活・風景・繋がりをホンワカと懐かしむ場になりました。

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宮田さん・松本さんの回想
現在の長崎市中央卸売市場までの歴史は、長崎に青果市場が八幡町にできて→十八銀行本店の道路はさんだ銅座町に→長崎魚市跡地の尾上町に→現在の東長崎の田中町に移っていったそうです。

漬物など食品を商う松本商事さんも、青果市場が八幡町から銅座に移った時に、爺様がドーンと今ある銅座に居を構え、その近くの出島にも倉庫を建てたそうです。多分、出島の倉庫は隠居部屋にとの思いだったからでしょうと。商売繁盛だったそうです。

商い人たちは、青果市場が動くたびに、市場に携わっていた人たちがその周りに住む。又、市場が移っていくと商いの人たちも付いていくんだそうですよ。

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海江田さんの回想
海江田病院は、長崎市に移譲した後、大分かどこかの文化財団の方が病院の防空壕を掘り起こして、いろんな資料を持って行ったそうです。その中に病院の建て替え札・昭和6年もあったそうです。手術室のタイルはイタリア製、玄関のタイルはドイツ製とか・・でも、長崎には無いそうです。。残念ですね。

それに当時、玉江橋の一本海よりに出島の岸壁まで伸びる国鉄の線路橋が引いてあって、枕木の下は海がチャポチャポと波うってて、その枕木を渡る悪い子!!がいたそうです。・・それは、私や松本さんの子どもの時の姿で・・ハラハラ、ドキドキがたまらないスリルだったのです。アハハの悪い子だったんですよ。

八坂眼科→朝長病院→市に移譲の移り変わり。それに稲崎材木店の脇の海・川側にゆるい階段があって、川で馬を洗っていた光景が目に焼き付いている。などなど、海江田さんの面白いお話は続きます。。。

昭和の長崎のオランダ商館跡地・出島の風景が見え始め、次回の11月が楽しみです。



ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー

2011年7月24日「第一回 出島の集い」に長崎の出島オランダ商館跡地の最後の住民だった方々が、8名集まって下さいました。1951年から50年かかって全て公有化完了し、それから10年経ってからでした。 

皆さんは、それぞれ個別に公有化に応じられたので、バラバラになってしまって一同に集まるのは久しぶりで懐かしいと・・・それでは、続きの第二回をしましょう!!というお誘いです。

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「第二回 出島集い」

日時:2011年 9月4日(日)午前11時~13時
場所:長崎県長崎市出島町6 出島内外倶楽部 1F 喫茶・レストラン室 095-821-7200
会費:無料
内容:交流会(懐かしい出島の思い出など)
連絡先:携帯 090−9797−3709 山田ゆかり
e-mail : warabeutaアットgmail.com  要連絡(8月31日迄)


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前回の「第一回 出島の集い」その2 松本商事さんでは、当時の宮田さんの面白いお話が聴けました。住んでいた人の姿が目に浮かぶ様で・・・懐かしいひと時でした。またお会いできるのが楽しみです。



オランダ屋敷のお隣さんは漬物店の松本商事・松本勇治さんの倉庫でした。

参加されたのはお孫さんの松本憲明さんと、 当時の事をよく知っている憲明さんの叔父の宮田さんと一緒にいらっしゃいました。 松本勇治お爺さんの出島話をして下さいました。

「1950年(昭和25年)始まった朝鮮戦争で地金で儲けた西野商店が戦後に傾いたんです。 そこで、農林中金から松本の爺様に話しのあって、吉田染料に100坪。松本に100坪。 買うてくれんか?と。・・多分、爺様は昭和32年ごろ買ったんです。」と話されました。

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「それから・・・松本の爺様は、お酒が大好きで、闇酒も作ったんです。出島でも一斗がめに作ってて・・腕が達者だったんで、味噌、漬物、佃煮の製造元で扱っていたんです。」と。

「その酒の美味しゅうて、よく呼ばれて出島で飲んどったんですよ。爺様が亡くなってその酒は床ン下に半分は残ってたけど、ぜ〜んぶ、酢になっとった。 そん酒が美味しくですね!! 」と。

「 あの味は覚えています。飲みながらこの川でバ釣いよったとです。それから、日野さんの爺さんの時にしょっちゅう出かけて飲みに行ってました。」と。

面白い話が出ました。  わぁ!! こんな出島の面白い話や鰻が釣れたなんて!! それに、宮田さんのお孫さんは、前にわらべうたを手伝ってくれた大学生だった。世間は狭い!!

宮田さんは、松本商事から昭和36年に独立。同じ漬物業で刻み唐人菜の「うまかばい」などを作られて今は、息子さんに㈱ミヤタを譲られてるそうです。

また宮田さんにお話して頂きましょう。 次回の9月4日が楽しみです。


長崎の出島オランダ商館跡地、最後の住民だった方々が集まって下さいました。

1951年は私が生まれた年で公有化開始年。2001年に50年かかって全て公有化完了です。

2011年は開始から60年経ち、7月24日に元出島住民の「第一回 出島集い」です。

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それぞれ、個別に公有化に応じられたので、バラバラになって一同には久しぶり。 出島の旧長崎内外倶楽部のレストランで8名の方が集まりました。

ぽろぽろ懐かしい出島オランダ商館跡地での生活ぶり、こぼれ話がでて。ランチしながらの交流会を月1回しましょう!!となりました。

この60年で出島復元整備も少しずつ進み、出島公式HPのいろんなイベントも楽しみです。

これから、皆さんの面白い出島こぼれ話と復元話も伝えていきますね。


   ー戦前、戦後に出島にお住まいの方々へー

私が半世紀前に長崎の出島に住めたことは特異なことでした。 貴重な縁を感じます。オランダ屋敷内で幼少から12年間の生活・風景・心もちが私のルーツです。

その当時の方々にお会いしてみると、あの頃の思い出を大切にしていらっしゃいました。先日、そんな方々にも「おとなが楽しむわらべうた& 紙芝居」に来て頂きました。

すると、音信が途絶えていたのに、懐かしい!!とのお話がありました。それでしたらと・・「出島の集い」のような集まりを設けてみようと。思い立ちです。

あれから、五十年がたち・・・また時はすぎゆくものです。思い立ったらまずは、お誘いの葉書を作ってみることにしました。

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そして、お会いした方、その方々の紹介される方に手製の葉書を配ることにしたのです。 ゆるやかに小じんまりとした・・・個人的な思いの集いです。

みなさまの出島時代はどのような風景だったのか?お聴きしたいものです。 楽しい、懐かしい集いになりますように!!



長崎の出島で酒屋さんをされていた酒井美子さんに会いに行ってきました。

昭和30年ごろ、長崎ではお正月用のお餅を搗く職人さんたちが町内をまわっていたんです。
出島では、暮れになると酒井酒屋さんの土間で餅つきがあっていたのです。

その酒井美子さんの餅つき思い出をお聴きしてきました。

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美子さんのお母さんは、餅つきの行事などがお好きだったそうです。
戦前から出島で酒屋さんをされ、美子さんの餅つきのお思い出は、苦いそうです。

うちでは、立ち飲み酒屋もしていて、たくさんの職人さんたちが集まって・・と。
安倍川餅などにして、その人達に食べさせる為にたくさん餅を搗いていたそうです。

でも、残ったカビ臭い水餅をお正月越して3月の春まで食べさせられて・・・と。
そうです、そうです!!  うちもカビ臭い鏡餅を食べていました。

我が家は、餅つきの日は、朝早くからあんこ餅用の餡をたくさんつくって置くのです。
寒い明け方に母と一緒に持って行き順番を待つ、丸めた餡を餅で包む。楽しみでしたよ!!

あんこ餅は一人5個とか決められてて、すぐ食べてしまって無くなるのですが。
鏡餅や机やピアノの上に飾られた白餅は残るのです。

白餅のカビが広がらないように黄色い大きなアルマイトのバケツに水を入れて保存です。
当時は、カビが少々生えていても当然食べる。 勿体無い!!という昭和30時代ですね。

そんな、出島の餅つきとか、当時の幼い弟の話も出たりして・・・。
お世話になった酒井さんにお会いで良かったです。


先日、長崎のクジラ(鯨)商の日野浩二さんに会うことが叶いました。

日野さんは、鯨の第一人者でNHK「知る楽」日本くじら物語 2009年8月18日放送の
”第3回 鯨食文化の灯は消えず”に出ていらっしゃる方でした。

私とは、昭和30年〜長崎の出島商館跡地に住んでらしたのでご近所だった事になります。
当時、私は小学生だったので出島といってもなかなか接点がなかったのかも知れず、、、
日野さんと親しい海江田さんに教えて頂いたのです。

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昭和36頃にオランダ屋敷と呼ばれていた時に陶製の大門の前で妹とった写真をお見せしたら
その門は戦後、県庁の裏手にゴロンと横たわっていたそうです。 びっくり!!

昔から出島にあったと思ってて、、ものごごろついた頃は堂々と大門になっていましたが。
移動したのだったら、「オランダ屋敷を復元」の西日本新聞/昭和30年の記事で昭和27年に
基礎調査が 始まったので・・・その頃でしょうか。

新聞に写っている片手に書類を持っている父の姿が懐かしいです。

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日野さんには、出島のことの他に、カラスミの話など教えていただいて面白かったです。
最近のカラスミは輸入もので、乾燥機なので天日でゆっくり干して発酵させたカラスミとは
ぜんぜん味が違う・・・などのお話も聴かせて下さいました。

長崎文献社から「鯨と生きる」日野浩二の人生という本も出版されています。
貴重な本も頂きお話も聴けて本当に良かったです。  ありがとうございました。

また、いろんなお話をもっともっと、、、お聴きしに行きたいです。


昭和30年頃、幼い私たち妹弟は長崎出島19番地に住んでいました。

直ぐ近くの長崎出島5番地は、耳鼻科の 海江田病院 だったのです。

先日、その病院の奥様だった海江田百合子さんに会いにいきました。
今は出島史跡整備のため出島をでられましたが、その頃の様子を懐かしくお話
して下さいました。

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百合子さんが海江田家に嫁がれたのが昭和28年だったそうです。
やはり、海江田さんのルーツは薩摩の伊集院。士族の海江田信義のご一族でした。

先々代、海江田純氏は大正11年に長崎大学医学部(元長崎医専)を卒業されて
昭和6年に長崎出島5番地で開業されたそうです。

出島5番地は、幕末から明治にかけて長崎に住んでいたフランス人貿易商ピニャテル家の
自宅と会社があったそうです。
そのピニャテルの洋館を引き継がれたのが海江田氏とわかったのでした!!

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ヴィクトール・ピニャテルは大正11年に亡くなり坂本町の長崎国際墓地に。
トーマス・B・グラバーと一緒の坂本町の地に眠っています。

海江田百合子さんには、出島のご近所の方々に加え、千馬町、おくんち、薩摩などのお話が
たくさん、たくさん、、、懐かしくて。お世話になりました。

やっと、出島5番地の転遷が幕末まで遡れてうれしいです!!


先日お会いした出島商館跡地のお隣さん、松本さんからありがたい情報が。

長崎出島にあった海江田病院の奥様がご健在だそうです。
当時、海江田病院にはとてもスッキリと美しい奥様がいらしたのです。

昭和30年代、7歳の妹と3歳弟は出島の海江田病院の待合室によく通っていました。
イヤイヤ、病気じゃなくてTV目当てなんですよ。

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病院の階段を2、3段登ると広い玄関が待合室。
数列ならんだ待合室の長椅子に、ふたりで仲良くチョコンと座ってはTVを見ていたものです。

私は、小さい首をのばして夢中でTVを見上げている妹弟を「夕ごはんだよ!」と呼びに。


越中哲也先生にもお尋ねしてみようと長崎歴史文化協会(歴文)にいってきました。
先生のお話では、奥様は日本ポルトガル協会の会員で歴文にもよくいらっしゃてたそうです。

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海江田さんを辿っていけば薩摩藩士。海江田信義のご一族で長崎に明治以降に医学の勉強に。
そして、その後耳鼻科の病院を出島でされそうです。
昭和30年当時の築は建て替えだったそうですが、とてもハイカラな洋風建築でした。

幕末明治期に来日したフランス人貿易商、ピニャテル親子の住居が出島5番地に。
ハイカラだったのですから、もしかして海江田病院になったのかもですね。

もしも、ピニャテル邸が、、、、海江田病院に渡っていったとしたら?
海江田病院の奥様にお会いしたら謎が解けるかもしれません。


昭和30年前後の長崎出島オランダ商館跡地の住人を探す一歩です。

先日の松本さんのアドバイスでゼンリンの地図を手がかりに、長崎県立図書館の郷土資料室に 行ってきました。

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私はゼンリンの地図は昔からあるものと思っていたらイヤイヤ、そんなものは無かった時代だった。

昭和36年(1961年)に株式会社ゼンリンは善隣として設立されています。

それ以前の長崎地図と言えば、、、。 ありました!! 昭和29年:長崎市街地図です。

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昭和29年といえば私は3歳です。 郷土資料室で、その昭和29年:長崎市街地図をめくると、、、次のお三方の言葉に原爆投下の長崎を是日にでも復興させようという熱い気持ちが。

原爆投下から9年、遮二無二、、長崎市民は働いたでしょう。涙がジンワリです。

その地図の1ページ目に、当時の長崎市長 田川務氏の推薦の辞が。昭和29年9月10日

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長崎国際文化協会 常任理事 木野普見雄氏 推薦のことば
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長崎地方法務局長 原田之人氏 推薦の辞
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思いがけずドアを開けたら、、、長崎の先人たちの生きてきた言葉にグサリと胸をつかれた気がしますよ。
この市街地図を編纂するのにどれくらいの人が関わったでしょう!! その方々の努力を思うと頭がさがります。

父の残した昭和29年5月14日の新聞のスクラップです。
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父の履歴書を見てみますと昭和28年12月から出島阿蘭陀商館跡地の工事に携わっています。
丁度、長崎市街地図編纂のころは出島の工事は中断していた時もあり大変だったようです。

その当時は、右を見ても左を見てもバラック小屋みたいな家が立ち並んでいました。 今のように便利な世間ではなく出島も”工事現場と新世界”に書いたような時代でした。

その地図の中には復旧前の、浦上天主堂、眼鏡橋、原爆公園などの写真もありました。 市街地図は善隣とは又ちがって昭和30年の長崎の味がにじみ出ていましたよ。



私は、長崎の出島オランダ商館の跡地内に小学校から高校まで暮らしていたんです。
みんなウソって!!思うでしょうね。 
そのことは 前回 もいいましたが、、、ここが、私のルーツと思っています。

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平成23年の出島→昭和の30年前後の出島へ、、、、、出島さがしがまた一歩ですよ。
その先がまた解って、、、、、大正→明治?と逆行できたら面白いですね。
明治以降、誰がどのようにして出島に住んだんでしょう?
住んでいたからの素朴な問い掛けです。

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今回は、昭和30年前後にお隣りだった漬物屋さんの松本さんに会いにいきました。
すでに当時、住んでいらしたおばあさんは亡くなられていて松本さんのお孫さんに
当たる方でした。
気さくな方でいろいろ教えて頂きましたよ。

現在、長崎市馬町にある長崎市民活動センターの「ランタナ」の所長さんをされています。

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今も、松本さんのご実家は銅座町の漬物問屋さんです。
そのころ中学生の松本さんは「 ”オランダ屋敷”と呼んでいたんですよ」と。
そうです!そう呼んでいました。

当時、おばあさんは犬と一緒に漬物倉庫に暮らしていたそうで、ご自分は住んだ事はないと。
今はご両親も亡くなられて弟さんが家業を継がれてているそうです。
お母さんが生きていらしたら昭和の出島のことがわったかもしれませんが、、、、、。

我が家は当時、松本さんのおばあさんから一部屋借りていたんです。
やっぱりでした。隣さんの大きな倉庫引戸をヨイショと開けると薄暗くてガランとしていた
思い出と同じでした。

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松本さんの隣は吉田塗料店、前は朝長病院、海江田病院、銭上倉庫などなど、、、
酒屋さんもあったのだけど名前が??
すると「県立図書館の昔のゼンリンの地図を手がかりにすれば?」とのgoodなアドバイス。

その当時のことやあれこれ話しているうちに、私の中で五里霧中だった長崎出島さがし
の手がかりがまた一歩、進めたように思えましたよ。


「江戸時代ー長崎出島のクリスマス会」の晩餐会は、送り三味線で締めくくられました。

三味線、和太鼓、コンチキ(鉦・かね)のお囃子に唄いが流れ、なんとも粋なのですよ。
盃にお酒をつがれググ〜っと頂いて、一人ずつ送り三味線の風にのって帰れるって。

長崎の送り三味線 from yamada yukari on Vimeo.


本当に贅沢な締めくくりですよ。芸妓さん、地方さんお囃子の余韻がたまらない・・・・・。

この晩餐会に出なければ、江戸時代の出島のオランダ人の暮らしが解らなかったなぁ。
何を食べていたの? どんなものを聴いて、何を見ていたの?

タイムスリップした晩餐会は楽しく美味しいだけでなくて、江戸時代のカピタンや殿様と
同じ空間に居るありがたさ、出島への望想がじわ〜と身に染みわたって幸いでしたよ。

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「冬至を祝う晩餐会」という名に密かに変えてクリスマスを祝っていたオランダ人や隠れ
キリシタンのいた時代は終わりました。
一度変わってしまったら、人々は昔のことをみごとに忘れますね。

今は、商業市場のきらびやかで明るいクリスマスが当たり前。
プレゼント合戦、イベント、バーティーが連日続き街は車や人でごった返しです。


「江戸時代ー長崎出島のクリスマス」を紹介して6回目になりました。
楽しくて濃いイベントだったのでupしながら追体験しつつ、、ニヤリとなるんですよ。

こぼれ話は検番の美代菊さん。
晩餐会で名刺を頂いたのですが渡す時に芸妓さんは扇子に乗せて差し出すそうですよ。

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美代菊さんはあっけらかんとした、かわいい芸妓さんであこがれてこの道に進んだそうです。
正装、黒の裾引きに高島田の姿は21歳には見えませんね。 まるでお人形さんみたいです。

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ひょんなことでblogの話になりipadをとり出すと「私もblogしてるんですよ」って仲間ですよ。
早速、ipadを手に取り「geko 美代菊」を紹介してくれました。

芸妓さんとipad from yamada yukari on Vimeo.


カピタン部屋でサササッてipadを使う芸妓さんって何だか面白い光景でしたよ。
ipadを持って行っててほんに良かったとですよ!!


「出島大宴会」の前には見学の一般人たちにプレ・イベントがありました。
ヴァイオリン、フルート演奏、オペラのお披露目でカピタンが日常に暮らしていた畳敷の
カピタン居間で演奏されたんですよ。

自然光が柔らかく落ち着いた室内で、お殿様も目をパチクリして観てただろう洋樂が目の前
で聴けて皆さんタイムスリップされたでしょう。

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その上、晩餐会の前に特別に長崎検番の芸妓踊りも披露されてプレ・イベントとしては豪華な
顔ぶれでびっくりでした。



今はクリスマスは当たり前の風潮ですが、江戸時代の長崎出島内でもご法度だったのです。
でも、出島内で暮らすオランダ人は食事も祭り事も大変苦心していましたね。

禁教のクリスマス祝いを「冬至会」「お正月会」とカモフラージュするとはみごとに
郷に入れば郷に従えっていう知恵でしょうか?
きっと、当時のオランダ通詞の計らいも多大なものだったんでしょう。

たまたまプレ・イベントに居合わせた見学の人たちは、わぁ〜、出島ではこんなのが
平常あるのだ!と勘違いしたかもしれませんね。


「出島大宴会」は全3回あったのですがその都度、検番にいる芸妓さんは替わりました。

最終回は、長崎検番・総芸者数21名の内から、鹿の子さん と美代菊さんの芸妓さんと 地方の(じかた:唄や三味線)るり羽さんが黒紋付の姿で登場。

鹿の子さん
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鹿の子さんは小柄で踊りがお上手でした。 前イベントのオペラをきちんと正座して聴いていらした姿は美しかったです。

鹿の子さんを写真に撮りたいと贔屓の方がいらしていましたよ。

美代菊さん
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検番に初ういしい風を吹き込んだ21歳の美代菊さんは黒紋付がピッタリと決まって まるでお人形さんみたいですね。 おちゃめで活発な芸妓さんです。

後方にスラリと立っている方は、地方のるり羽さんです。 美人で粋に三味線や唄をうたわれる姿はかっこいいんです。華がありました。

長崎の思案橋から山の手に入って行くと長崎検番や料亭花月などがある丸山があります。 そこの丸山音頭です。



長崎には、「くんち」という大きなお祭りがあります。 そのお祭りの時に「もう一度!・アンコール」という意味のかけ声「モッテコーイ」 を囃して再演をたのみます。この双方の掛け合いや引き具合いが面白いんですよ。

しかし、踊りの「モッテコーイ」は正しくは「ショモーヤレー」と囃します。 晩餐会では、「モッテコーイ」も「ショモーヤレー」、、、片や「モッテカエレー」なども でて賑やかな宴会でした。

長崎の南にある島原半島の中央に温泉で有名な雲仙があります。湯の街の手ぬぐいにみたてた布を粋に振りながら踊る雲仙音頭です。



晩餐会の踊りは、「長崎ぶらぶら節」「浜節」「丸山音頭」「雲仙音頭」「もみじの橋」と お座敷遊びの豪華版でしたよ。

カピタン部屋に「ショモーヤレー」、「ショモーヤレー」の声が響いていました。


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