とりあえずシャッターを押す。バランスよくボケないように写真を撮りたいのです。
でも、ほかに撮る意味は?を考えると難しいです。そんな時に奨められた本のイントロダクション(序文)のつづきです。
特に、本書は「見る」という行為と、写真家と写真を見る人の両方に関わっていることが何かということを明らかにしようとしています。見過ごされがちなことですが、写真において「見ること」は能動的な追求です。見ることには、単なるある対象の複製ということを超えて「見る」行為を意識的に試みるという意味も含まれているのです。その目 ー写真家の目と作品を見る人の両方ー は、体のほかの筋肉と同様に鍛えられなければなりません。
ヨゼフ・アルバースはかつてこのように主張していました。「もし私たち鑑賞者が読みとることができるのならば、写真は写真家の個性を表しているのだ。音楽の才能がない耳には音楽を判断する能力がないのと同じようなことが、絵画、素描、写真であろうが、さまざまな画像にもあてはまる。敏感で訓練を積んだ目だけが私たちに判断する権利を与えてくれるのであり、そういう目こそがより深い読み取りと楽しさを与えてくれる。単に好きか嫌いかという地点を越えられるかは教育にゆだねられている、と私は信じている」(2)
この序文を読んで訓練はつんでいないけど、敏感な目で見てみようとして撮った写真です。
雪のちらつく海岸に累々と重なる白いテトラポット。干潮で姿がむきだしのテトラと青岩石が目に飛び込んできました。
あ〜っと、ため息がでたんです。
むき出しのテトラポットの群列を意図をもって撮ったんです。
ほとんどの人は写真を「撮っている」のであり、「つくっている」のではない、といっても差し支えないでしょう。なぜでしょうか?おそらく私たちは写真が与えられてくれる限りない可能性を十分に把握しきれないのです。あるいは、アンドレ.ケルテスが指摘したように「誰もが見る(look)ことはできるけれども、必ずしも(see)わけではない」(3)からかもしれません。素晴らしい写真とは、見た目にきれいな写真を超えた何かなのです。