長崎の出島で10月1日からシュガーロードフェスタin出島が始まりました。
オープニングイベントのシュガーロード講座第1回「出島と砂糖について」原田博二氏に
出かけました。
2005年に長崎のわらべうたの「あっかとバイ」と「イギリス イギリス」の撮影に
行った以来です。
あれから、5年たってずいぶんオランダ商館内の復元が進んでいました。
砂糖の事始めは奈良時代、754年唐僧の鑑真が初めて日本に伝えたそうです。
でも当時の砂糖は黒砂糖で薬として使われていて、今のような甘味料ではなかった。
それが、16世紀の後半になってポルトガル船によって大量に砂糖がもたらされ砂糖羊羹
砂糖饅頭、砂糖餅、砂糖飴などがつくられまた、このころ、カステラ、コンペイトウ
ボウロなどの南蛮菓子が伝わったそうです。
その砂糖をどのように運んだかというと船の船底に置きバランス良く船を安定させる
重量物(バラスト)として運んだそうです。
なるほど、当時は砂糖の輸入の玄関が出島だったので「長崎が遠か」と言うことばが長崎に
あるんですね。
動乱の幕末を行く 19 長崎新聞
「龍馬伝」が始まって長崎も脚光を浴びてきて新聞や講演会、出版類もたくさんでてきました。
先日も「ジョン万次郎のすべて」という講演会に行ってきました。
長崎新聞の2009年10月17日に掲載されている記事です。
「龍馬と長崎 動乱の幕末を行く 19 」
あら、記事の写真は懐かしい出島の石倉庫です。
新聞の写真には、龍馬が購入したライフル銃を保管していたとみられる「19番石造倉庫」
を一部復元した「旧石倉」と掲載してあります。動乱の歴史があった倉庫なのですね。
「龍馬伝」が放映されてブームになっているからというより、私にとってはもっと
身体的な捉えかたで核になっています。
父が毎晩この倉庫の人になり、2階に畳をしいて炬燵に座り研究していた姿のこと。
弟がオシオキに倉庫に閉じ込められたりして妹が助けに行っていたこと。
子どもながらに倉庫の中にいろんなくんちの山車や歴史的に貴重なものがゴロゴロしていたのを
薄暗いガランとした空間のなかに日常として見ていたこと。
鉄の窓を開ける時の重みとか、まぶしい光のさしてくる外と内のコントラスト。などなど、、
私は、そんな身体的な懐かしさが核になっていたので5年前に長崎新聞で「長崎のわらべうた」の
1年間連載が始まったとき出島オランダ商館を舞台にしたかったのでした。
2004年11月からの掲載の中で長崎のわらべうた、”あっかとばい”と”イギリス イギリス”を
この出島の倉庫の中で録画したわけでした。
わらべうたのグループの名前”あっかとばい”もここからもらったのです。
私は、自分の立ち位置から長崎で幕末にどんな人物が活躍し、その当時どんな建物が
建っていたのか解っていけたらと思います。
父のやってきた「長崎の洋風建築」や、出島オランダ商館内に育ったことを
私なりの基板にしたいと思います。
父から14年前に「長崎の洋風建築」という父の書いた本をもらいました。
本をもらって4年後の2000年9月21日に86歳で父は亡くなりました。
3人の子どもヘ一冊づつ形見のつもりであげたのでしょうが、私は中身も読まずに
長いこと本棚にしまっていました。
父が亡くなって4ヵ月後はじめてその本を手に取りました。
身内で月命日の法要後、父がした仕事を巡ろうということになったのです。
光源寺→興福寺→眼鏡橋→崇福寺→リンガー邸→グラバー邸→出島オランダ商館跡を
訪ねてみました。
母、子ども、孫たちで訪ねることができて良い思い出になりました。
昔のことを振り返ると懐かしさがこみ上げてきます。
当時の写真などを整理していたら出島の工事現場でしょうか、大工さんや石屋さんなど
懐かしい顔が思い出されます。
石屋さんの坂本さんは、やさしい人で大きな黒い目のまゆがくっきりした物静かな人でした。
前列の右端が父、坂本さんは右端から4番目の方です。
私は現場に遊びに行っては皆さんにかわいがってもらったことでしょう。
今となっては名前は覚えていなくてもみなさんの顔はシッカリ記憶に残っていて
前回の「道」の映画のシーンを思いだすようなデジャヴな感じがします。
2000年からまたこの本は10年間眠っていました。
その間、息子は通っていた長崎県立北高の図書館の方からこの本が貴重な本だと
教えてもらったことがあったそうです。
意外なところで評価されて息子と共にびっくりしました。
父は、1967年(昭和42年)に本を書いてから後年、東大に論文を出し博士号を取り
それからは学術の分野へ方向転換しました。
その後、息子が日本建築学会大会学術講演梗概集の父の論文が面白いと勧めたのが
きっかけでこの本は10年ぶりに起きてくることになります。
私は建築などは門外漢なのですが、父は明治維新前後の激動の歴史とリンクしている
長崎の建築は面白いと思ったにちがいないと思います。
だって何年も毎晩、倉庫の人になっていたんですもの。
好奇心旺盛なのは父譲りでしょう、私の目線でこの本を紹介していこうと思います。
昭和30年1月に祖母と父が並んで写っているの写真です。
出島オランダ商館跡復元工事の監督をしていたその現場です。
たぶん、お正月ではないでしょうか。
その頃、私は3歳10ヶ月、母とよく出島の復元工事現場に行っていたようです。
その出島に近い湊公園の裏に「新世界」という映画館がありました。
両親は映画が大変好きだったので私を連れてよく行っていました。
昭和30年代に長崎市内にはたくさんの映画館があったのですが、「新世界」は
特別に大きかったと思います。
映画のストーリはわからなくても心に残るシーンは今でも覚えています。
イタリア映画のヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」のうら悲しい感じ。
昭和32年に日本で上映されたフェデリコ・フェリーニの「道」も観ました。
ジェルソミーナの表情、海のぎらぎら光るシーン、きれいなメロディーなど。
父たちは新世界で観終わった映画話に花が咲き、湊公園から銭座町まで自転車を
ひいてトボトボと歩いて帰っていたそうです。
その自転車の荷台に乗っていた私はよく落っこちたらしく昭和30年ごろの
ほのぼのとした笑い話です。
父のスクラップ帳から西日本新聞の昭和28年1月28日の記事の見つかりました。
記事の中の出島の復元計画見取り図を見ているとk病院とは海江田病院
県立病院は出島病院、隣が内外クラブ、朝永病院でした。
海江田病院の向かいは銭上倉庫があったと記憶しています。
旧長崎内外クラブにはオランダ商館内から移って数年間暮らしたこともあります。
クラブに入ると石の通路があって、1階をキッチンに使っていました。
2階の居間も西洋風なので天井が高く、気持は良かったのですが、、、、
自分たちで壁や天井に白いペンキを塗るのが大変でした。
だって面積が広くて、広くて。 でもあれ以来ペンキ塗りは好きです。
それに、今からすると当たり前のことでしょうが、、、、
内外クラブの部屋の間仕切りが重い大きな丸のノブのついたドアだったのです。
建物自体は古かったのですが昭和30年〜40年代当時には居間がドアで区切られるのは
ハイカラだったんですね。
私たち家族は西洋の個室の先がげをいく建築物に暮らしてみて、その生活空間が
なじんだのでしょう。
後年、父は西山と千々に家を建てた時、普通の家よりも天井を高くし、ドアも特別に
つくったわけが解ったような気がします。
今考えると懐かしいくも、貴重な空間に暮らした思います。
父の机を整理していたら木箱が見つかりました。
木箱の蓋に
「昭和23年3月1日午前2時半
卒業製図完了 懐中電燈の光にて
我が 三歳(ねん)の業なりぬ
熊本工業専門学校建築家
山口光臣
三十五才」
を見て頑張ってきた父の姿が目に浮かびます。
毛筆書きの父の履歴書二枚もみつかりました。
一枚目は本籍、現住所、生年月日に学歴、職歴です。
昭和15年に4ヶ月間西浦上小学校に勤務した後、満州に渡っています。
その後、昭和20年に官立彦根工業専門学校に入学しました。
しかし、終戦後に満州に渡っていた兄家族を心配して全員を連れ戻しに
満州へ行き引き上げたのが昭和20年11月だったと聞いています。
昭和21年春に現熊本大学工学部に編入学、木箱の蓋にかいた23年に卒業したのです。
昔の人らしく和紙にきちんと書かれた工事歴をみると満州から帰国して
長崎の高島、そして出島オランダ商館跡復元工事を施工監督したことが書いてありました。
何事も正面から集中力をもって行動する人でした。
通学路の昨今 2
昭和33年ごろの通学路で江戸町は川添ガラス店の先に質屋さんがあり、左折すると
ピンコロ坂が県庁まで続き、向かいは卸のお菓子やさんがあったのを覚えています。
ピンコロ坂も当時の小学1年生にはヤットコ登って県庁だと感じていました。
ヤットコ県庁に出てからは、新興善小学校まで一直線でした。
しかし、この一直線もまだまだ、学校に着かん!と思ってた記憶が蘇ります。
毎日通学していた新興善学校は2008年に長崎市立図書館になりました。
昔の通学路をふりかえると、今は車社会になってスピードも目まぐるしく
変わってしまったんですね。
通学路の昨今 1
昭和33年、私が出島から毎日通った新興善小学校への通学路です。
出島橋を渡りおわると少し下り坂です。
現在も丁度、小学1年生が橋を渡っていましたがこの子の目線でも
出島橋はデカイでしょうか。
右手は登本酢店でした。今は、ガゾリンスタンドになっています。
左手は100円パーキングになってしまった川添ガラス店です。
後ろの木に隠れているのは県庁です。
昔、川添ガラス店の前でピンクのシャツを着ていた社長さんをある日
失礼にも笑ったんでした、、、、すると、こっぴどく怒られたのを覚えています。
当時、男の人がピンクの服を着ているのはめずらしい時代でした。
出島橋
毎日、新興善小学校(現:長崎市立図書館)に通学する時に通っていた鉄橋です。
出島橋は現役として使用されている鉄橋の中で日本最古だそうで なんと、
2010年で橋歴120年になるそうです。
1890年(明治23)に造られましたとちゃんぽんコラムに書いてあります。
その当時は子どもの目線でしたからすごくデカイ橋でした。
長さもかなりあって雨風の強い日は海から吹く風に飛ばされぬようにと
しっかり傘をさして中島川を見ながら通ったものです。
橋を渡ると川添ガラス店、その先は江戸町のピンコロ石坂上り。
いつも、子どもって地上1メートル目線で見ているんですね。
今にしてやっと橋の上にあるコウモリ型の銘板に気が付きました。
18銀行本店がまだ建っていないころです。
昭和30年当時の新聞が父のスクラップブックから出てきました。
「オランダ屋敷を復元」
160年ぶりに復元に ”出島の資料”を陳列公開
(昭和30年2月19日・西日本新聞)
この新聞の写真の中の人物は、当時施工監督をしていた父の姿でしょう。
思わぬところで眠っていた戦後の出島の息遣いが伝わります。
父の生前にもっと詳しく聞いておけば良かったと悔やまれます。
後年、隠居していた千々の家に資料や手帳を取りに行ってきました。
最後に海が近くに見えるところとして建てた家です。
また、少しずつおもしろいことが解ってくるかもしれません。
今の考古館は全面石造り。でも、昭和36年ごろは正面は木造で側面が鉄の窓が付いている石倉で大きな建物でした。 当時の商館跡の大門の前に立つ私と妹です。
「そうこ」の内部は当時ガランとして一階にはおくんちの山車。他に、出島に保管されている物がゴロンゴロンと置いてありました。 そこは、子どもの目には暗くばかデカい未知の空間でした。
私は「そうこ」が父の居る場所とわかっていたので恐ろしくなかったのです。でも、弟は悪いことをするとオシオキに「そうこ」に入れられるか、出島の中で一番大きい松の樹にくくられていました。
かわいそうな「そうこ」に入れられた弟を救い出すのはいつも妹。
昭和37年の冬は、軒下にはツララが20センチも下がり、雪もたくさん降りました。出島の庭に積もった雪で大きな雪だるまを作って遊んだのです。このころは寒かった!!
手や足にはシモヤケができ、練炭の炬燵に入るとカユくてたまらない時代でした。
私の昔の写真です。昭和30年5月と裏に記してあるので3歳10ヶ月。
場所は、戦後まだまだ日が浅く復元工事の途中の出島阿蘭商館のです。
大きく切り出した石群の上にスクッと立っている私の写真です。 後ろに鉄橋と英彦山が写っています。
父、山口光臣は長崎の出島阿蘭商館はもとより大浦天主堂、興福寺、崇福寺(赤寺)などの 国宝を修復する仕事をしていました。
チャンポンで有名な「みろくや」さんのホームページを書かれている越中哲也先生の第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理に出ています。
当時(1958年〜1970年)の私は新興善小学校に通い始め、子ども目線からの出島は三角溝やぶどうが実った庭を勝手に家の庭と思っていました。
鉄の大鉄砲、あじさいの花、石造日時計、大きい松の木などなど。
今のように整備されていない戦後まもない出島阿蘭商館跡地は、周囲を埋め立てられていて他の倉庫群の中にあり外見では扇形も解らない処でした。
そこで、長崎市の文化財にいた父は埋め立て前の江戸時代の出島阿蘭商館の姿を復興する為に扇型の外枠に鋲をうちました。
また、一角にある石碑「史跡 出島阿蘭商館」を立てる時、父は叔父に頼み文字を書いてもらったそうです。
倉庫(現:考古館)を私たち三姉弟は「そうこ」と呼んでいました。
父が論文を書いているとはその当時の私は解らずに「勉強しに行っとる」と思っていました。
父は寒いガラ〜ンとした暗い「そうこ」に行く時、祖母から縫ってもらった泥大島の袢天を着ていました。
弟は生まれてからず〜と夕食だけ家族と一緒に食べて「そうこ」に通う父の姿を見てて、ぼくの父?ではなくどこかのおじさんと思ってました。
そうでしょう、私と8歳ちがいの弟はあかちゃんの目線でそんな父の姿を見ていたんですもの。
「そうこ」の重い鉄の窓をギ〜っと開けると明るい光が差し込んできた情景がありありと目に浮かびます。
長崎の出島と言えば私のルーツみたいな存在です。
その空間に小1〜高3まで育ったことを感謝しています。
父は、旧大倉庫(現:考古館)の二階に畳を二つひき、その上にコタツを設けました。
当時真っ暗な大倉庫は父の仕事部屋になっていました。
長崎の洋風建築の論文を毎晩夕食後に書いていたのです。
それは毎晩何年も続きました。
そんなこんなことを綴ります。