昭和30年前後の長崎出島オランダ商館跡地の住人を探す一歩です。
先日の松本さんのアドバイスでゼンリンの地図を手がかりに、長崎県立図書館の郷土資料室に 行ってきました。
私はゼンリンの地図は昔からあるものと思っていたらイヤイヤ、そんなものは無かった時代だった。
昭和36年(1961年)に株式会社ゼンリンは善隣として設立されています。
それ以前の長崎地図と言えば、、、。 ありました!! 昭和29年:長崎市街地図です。
昭和29年といえば私は3歳です。 郷土資料室で、その昭和29年:長崎市街地図をめくると、、、次のお三方の言葉に原爆投下の長崎を是日にでも復興させようという熱い気持ちが。
原爆投下から9年、遮二無二、、長崎市民は働いたでしょう。涙がジンワリです。
その地図の1ページ目に、当時の長崎市長 田川務氏の推薦の辞が。昭和29年9月10日
長崎国際文化協会 常任理事 木野普見雄氏 推薦のことば
長崎地方法務局長 原田之人氏 推薦の辞
思いがけずドアを開けたら、、、長崎の先人たちの生きてきた言葉にグサリと胸をつかれた気がしますよ。
この市街地図を編纂するのにどれくらいの人が関わったでしょう!! その方々の努力を思うと頭がさがります。
父の残した昭和29年5月14日の新聞のスクラップです。
父の履歴書を見てみますと昭和28年12月から出島阿蘭陀商館跡地の工事に携わっています。
丁度、長崎市街地図編纂のころは出島の工事は中断していた時もあり大変だったようです。
その当時は、右を見ても左を見てもバラック小屋みたいな家が立ち並んでいました。 今のように便利な世間ではなく出島も”工事現場と新世界”に書いたような時代でした。
その地図の中には復旧前の、浦上天主堂、眼鏡橋、原爆公園などの写真もありました。 市街地図は善隣とは又ちがって昭和30年の長崎の味がにじみ出ていましたよ。